捜査共助課(短編小説)1〜30話

□春
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また、春が来る。


 秋葉は非番の朝を、実家で迎えていた。3月20日。風の強い朝だ。先週は西日本での桜の便りと季節外れの雪のニュースで、やはり世の中は異常気象なのだろうかと思ったが。取り敢えず、気象に振り回されて体調を崩すわけにもいかない仕事なので、自己管理だけには気を配った。その甲斐あってか風邪も引かず、今年も花粉症にはなっていない様だった。目を細めて机の上の時計を見ると、午前7時。普段の自分からすると随分起床時間が遅い。別に今日済ませなければならない用事もないし、もう1度眠ってしまっても構わない。と思ったところへ小さな足音がして、部屋のドアが開いた。
「柊兄ちゃん!」
 子供特有の高い声でそう呼ばれたかと思うと、彼女はベッドの上にジャンプした。
「柊兄ちゃん!朝朝朝!!」
 秋葉の背中にアタックしたのは姪の唯だ。3歳になり、この4月から保育園に通い始める唯は、最近語彙が豊富になってきた。ちなみに『柊兄ちゃん』と呼ばせているのは秋葉ではなく、兄嫁の朋香だ。秋葉としてはどう呼ばれても、たとえおっちゃんと呼ばれても気にはならないのだが。
「おーきーて!」
「その前に、おーりーて……」
 秋葉は子供が苦手だった。無邪気な笑顔を向けられる度に接し方が分からず、戸惑ってしまう。それを悟られないように、いつも必死なのだ。
「早くよー!」
 明るい笑い声と共に、足音が階下へと消えて行く。秋葉はベッドの上に起き上がった。睡眠時間のリズムが崩れて、少し身体が重い。刑事の習性が身に付きすぎているのか、睡眠時間は短いほうが楽なような気がする。仮眠なしで24時間以上動き回る事にも慣れていた。持ってきていた私服に着替えると、秋葉は部屋を出て1階へと降りる。ひんやりとした廊下に、かすかに線香のにおいがする。秋葉は仏壇が置かれている部屋の襖を開けた。そこには母親の周子が座っていた。今日は彼岸だが、周子にとってはそんなことは関係ない。彼女は毎日この場所で時を忘れて座っている。
「………」
「あらやだ、おはよう。いつの間に起きたの?ゆっくり眠れた?」
 そこに秋葉がいる事に少しの間気付かなかった周子は、慌てたように笑顔を作って言った。秋葉もぎこちない笑みだけでそれに答える。この家の時間は、数年前で止まっている時がある。母が毎朝仏壇の前で何十分もぼんやりと座っている事は、兄や父から聞いていたが、秋葉はなるべくそれを見ないようにしていた。だから、周子の隣りに座ることも、襖を閉めて立ち去ることも出来ず、秋葉はその場に立っていた。
「朝ご飯、食べようか」
 周子は立ち上がり、自分より遥かに背が高くなった息子を見上げ、その横をすり抜けて台所へ向かった。秋葉は6畳のその部屋に足を進め、仏壇の前に座った。比較的新しい位牌は妹の貴美の物だ。小さな写真たてに収まった笑顔を見ると、相変わらず胸が痛かった。
貴美はいつか自分を許してくれるだろうか。両親や兄が自分を許す時は来るだろうか。あの春、予想もしなかった奇禍によって貴美は24年の短い生涯を終えた。あの場に貴美が居なければ。ほんの数秒で歯車が狂った。いまさら考えても仕方の無いことを秋葉は考えている。
「柊兄ちゃん」
 不意にそう呼ばれて、秋葉は弾かれたように顔を上げた。
「唯……」
 かつて妹が自分をそう呼んでいた事を思い出した。唯の笑顔が、どことなく貴美のそれにも見える事が不思議だった。
「貴美ちゃん、死んじゃったの?」
 秋葉の背中に抱きついて、遺影を見つめながら、唯が問う。
「うん……」
 秋葉は頷いた。 
「死んじゃうってどういうこと?」
 まだ舌足らずな口調で唯は言う。秋葉は返す言葉に詰まった。3歳の子供に、『死』というものをどう説明すればいいのか。だが唯は、秋葉の背中で答えを待っている。
「会いたいけど……もう会えないって事……かな」
 あらゆるところに、その人が残していった足跡があるのに、もう会えない。その体温に触れることができない。それが永遠の別離という事だろうか。
「遠くに行っちゃうってこと?」
「そうだね」
 秋葉を抱きしめる唯の手に、少し力が入った。彼女はちいさな頭で、秋葉の言葉を自分なりに理解しようとしている。比呂に似たのか、朋香に似たのか、唯は感受性が豊かで大人の言葉を理解するスピードも速い。しかし、人が生まれて死ぬことを理解するにはまだ早すぎる。もう少し先まで、知らなくてもいい。
「朝飯、食うか?」
「うん」
 そして唯は秋葉の隣に座り、仏壇にむかって小さな手を合わせた。

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