捜査共助課(短編小説)1〜30話

□記憶ー1
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痛みはさほど感じない。
あの底無しの暗闇に墜落することを思えば。
ただ、ほんの少し
心が張り裂けそうになるだけ。



その日は、あまりにも穏やかな日だった。
穏やか過ぎて、少し怖いくらいに。
桜が満開だった。それで不吉な予感がしていたのかもしれない。
正午を過ぎた頃、先日都内で発生した、拳銃を使った強盗未遂事件の犯人が潜伏しているという情報を受けて、近くを覆面車で走行していた秋葉と陣野は、管轄内のビジネスホテルに急行していた。
都内全域のビジネスホテルやカプセルホテルに配っていた手配書を見て、通報があったのだ。
「この男で間違いないですか?」
フロントでその男の写真を見せて、確認を取る。
「ああ、そうそう。この人ですよ。間違いないよ。手配書と同じ顔だったから、もうびっくりして。まさか、ねえ」
中年の男性は、そう言って大袈裟に肩をすくめた。
「あなたは、奥の事務所にいてください。この犯人は銃をまだ持っている可能性がある。もうすぐ応援が来ます。逃げ場を塞いでから身柄を確保しますので、鍵を貸してもらえますか」
そう言って、秋葉は左にあるエレベーターに目をやった。
ひとりの男が、そこに立っていた。
「陣野さん」
秋葉の声は緊張していた。明らかにエレベーターの前に立つ男はこちらを見ている。
そして彼らが何者であるか、敏感に察知してしまった。
「ちくしょう」
陣野は口の中で呟いた。
エレベーターのすぐ側に、非常口がある。
その扉の向こうには、まだ捜査員が配置されていない。
「秋葉!!何がなんでも押さえろ!銃を使わせるな!」
男が使っている銃は、密輸され改造された粗悪品で、暴発する危険性もあった。
既に犯人に向かって走り始めていた秋葉からは返答はなかったが、陣野は自分が言った事が彼には充分伝わっている事を理解していた。
そして自分もその後を追って、外に飛び出す。
表通りに出てしまっては、面倒なことになりかねない。
それにしても、どうして平日の昼間にこんなに人通りが多いのか。
陣野は普段なら気にもとめない事を思う。
ふと目に入った空が青い。
すぐ目の前を走る秋葉、その先に犯人。
嫌な予感がした。
男は何かを叫び、銃を取り出した。その銃口を秋葉に向けたが、陣野はその先を見ていた。
細い路地に駐車された大型ワゴンの影から、ひとりの女性が現れるのを。
何も知らず、その右足をこの路地に踏み出してくるのを。
「秋葉!!」
陣野が叫ぶのと、銃声が響くのは同時だった。
男はその女性に背中からぶつかったのだ。
だから、彼が殺意を持ってその行動を起こしたかと問われれば、それは違うと答えなければならない。
しかし、銃声は響いた。
そしてゆっくりと女性はアスファルトの上に倒れていく。
男は更に走ろうとした。それを秋葉が追い、特殊警棒で男の右手から銃を叩き落す。
陣野は倒れた女性のそばに膝をついた。
「おい、しっかりしろ!」
白いブラウスの胸に、あっという間に赤い染みが広がっていく。
陣野は携帯電話を取り出すと、救急車を要請した。
応急の手当ての指示を受けて、その通りにはしてみたものの。
(間に合わない)
彼女の傷は致命傷に見えた。顔から血の気がなくなり、閉じられてた瞼は開かない。
秋葉は男の手に手錠をかけ、陣野の側まで引きずっていく。
バッグの中から取り出した免許証から、撃たれた女性の名前を確認し、陣野は秋葉を見上げた。
「秋葉、貴美……秋葉、彼女はお前の…」
陣野がそう呟く前に、秋葉は倒れた女性が何者であるかを理解した。
「貴美………?」
遠くから聞こえてくるサイレンは、永遠にこの場所までたどり着かないように思える。
それほどに時間の経過は緩慢だった。
秋葉は救急車乗せられた妹の、冷たい手をただ握り締めていた。
見送った陣野は、秋葉の母親に連絡を入れる。
彼女が助かるように、というよりも、母親が最期に間に合うように。
という思いで、陣野は祈るように青い空を見上げた。
「お、にい、ちゃ……」
苦しげな呼吸の下から、貴美は秋葉を呼ぶ。
もう、側で自分の手を握っているのは誰なのか、分かっていないはずなのに。
救急隊員は、駄目だというように、小さく首を振った。
「わた、し……死ぬ、の……?」
そして、貴美は。
秋葉の手を信じられないほどの力で強く握り締めた。
それが最期だった。

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