自動車警ら隊(リクエスト)
□名前を呼んで
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母さん。
俺の名前、呼んでよ。
分かる?
俺の名前。
違うよ、それは俺の名前じゃない。
俺の名前、やまと、だよ。
俺が誰か、分かる?
母さん。
こっち、見てよ。
戻ってきてよ。
1
『お前なら、秋葉に再生していく力を見せてやれるのかな…』
影平が言った言葉を、俺は。
あれからずっと、考えていた。
『人を殺してやるって、本気で思った事があるんだ』
どうしてあの時、秋葉にそう打ち明けてしまったのか。
後悔はしていないが、長い間考えていた。
秋葉は、ただ。
肯定も否定もせず、問い詰める事も驚愕もせず。
俺をまっすぐに見ていた。
その目が、『あの日』を思い出させて。
俺の方が先に辛くなって、秋葉から目を逸らしたような気がする。
忌まわしい春の日を通り過ぎ。
季節は初夏へと移り行く。
刑事課は彼を欠いたまま、表向きは何の変哲もない『日常』を繰り返している。
彼以外の人間が日常を過ごしている間。
彼はただ独り、取り残されていた。
晴れた日の午後。
病院の屋上へと続く扉を開けると。
『秋葉』は、フェンスに手をかけてぼんやりと街を眺めていた。
『秋葉の……記憶が……無い?』
何かの冗談かと思った。
影平からそれを聞いた時は。
『それ、何の冗談……』
言いかけて、止めた。
影平があまりに真剣な目をしていたから。
秋葉の相棒である梶原は、毎日時間を作って病院へ行く。
秋葉がICUを出て一般病棟にうつり、リハビリが始まった頃には満開だった桜が葉桜になっていた。
鮮やかな新緑を。
秋葉は何の感情もない目で見つめている。
まだ風が僅かに肌寒い。
事件以来、久しぶりに見る秋葉は、元から白かった肌が入院生活で更に白くなり。
風に揺れる黒髪が少し伸びていた。
俺は声をかけてもいいものだろうかと、躊躇う。
名前を呼んだ後に、彼に何と言えばいいのか分からない。
さわさわと入院患者達が各々、午後の時間を過ごしている中で。
明らかに秋葉だけが異質だった。
ふ、と視線を感じたのか、秋葉が振り向く。
その目は、以前と何一つ変わらないようであり、何もかもが変わってしまったようにも見える。
「秋葉……」
絶対に、呼ぶ声は届かない距離だった。
だが、秋葉の唇が微かに動く。
「薬師神、さん…」
と。
一瞬、記憶を失ったというのは、やはり影平や梶原の冗談だと思った。
秋葉は確かに、俺の名を口にしたのだ。
だが、秋葉に近寄ろうとして、俺は足を止める。
秋葉の目に、不意に苦痛の色が浮かんだ。
足が、後ろに逃げようとしている。
不安げに視線が揺れ、これ以上距離を詰められる事にひどく怯えているようだった。
それが空気を伝い、痛いほど伝わる。
彼の姿が、自分の家族の姿と重なってしまい、俺は思わずその名を呼んでしまいそうになった。
その衝動を寸での所で押さえ込み、俺は秋葉に向かい笑みを見せた。
結局、それしか出来なかったのだ。
「……調子、どう」
「………」
一度心肺停止に陥った人間に、調子はどうだと尋ねるのもおかしい気がしたが。
俺はゆっくりと秋葉に近付いた。
変に身構える事で、秋葉を警戒させてしまうよりも、以前と同じように接した方がいいような気がした。
秋葉は。
記憶の引き出しを懸命に引っくり返して、目の前に現れた人間の情報をかき集めようとしているかに見えた。
『分かるかって…覚えてるかってきいてみな…。あいつ…答えるから』
影平に数時間前に言われた言葉を、俺は思い出した。
「顔色が悪い…。あまり無理をするな。座れよ」
壁際にあるベンチがひとつ空いていた。
俺がそれを指差すと、秋葉はようやく、縋るように右手をかけていたフェンスからゆっくりと指を離す。
左腕はまだ自由には動かせない。
ぎこちない動きで秋葉は俺の側に近寄った。
秋葉を座らせ、その隣に腰を降ろし。
無言のまま目も合わせない秋葉に俺はひとつ溜息をつく。
「やっぱり…覚えて…ない、か…」
その呟きに、秋葉が膝の上で握り締めた手がぴくりと動いた。
「薬師神大和巡査部長…。1974年12月28日生まれ………」
唐突に。
本当に唐突に、秋葉が口を開いた。
「秋葉…?」
俺は眉をひそめ、秋葉の口元に目をやる。
掠れた声で、秋葉は言葉を続けた。
まるで俺の履歴書を頭から完璧に読み上げていくような、機械的な声だった。
「柔剣道3段…」
ゆらり、と秋葉が俺を見た。
「実家は神社で。あなたは神主の資格を持っていて…警察官になったのはその資格を取ったあとで。家族構成は…両親と、妹…それから…」
「秋葉……もういい」
影平が言った意味がようやく分かった。
『あいつ……1日で覚えたらしい。刑事課全員の、データを』
顔と写真を一致させ。
そこから叩き込んだ様々な情報を。
秋葉は口にした。
そこには当たり前だが何の感情もなく。
俺はヒトの『記憶』というものが、一体何であるのかを考える。
「ごめんなさい………」
目を逸らし、長い沈黙の後。
秋葉がぽつりと呟いた。
「ごめんなさい……薬師神さん……」
膝の上で握り締めた右手が、微かに震える。
「ごめんなさい」
何度もそう呟き、秋葉はまた必死で記憶を探ろうとする。
だが、それぞれの記憶の欠片は存在しても、それは意味のある形を成すものではなく。
「秋葉、無理しなくていいから」
俺はもう一度秋葉を止めるために、その腕に触れようとした。
「………」
指先が触れた瞬間、秋葉はびくりと肩を震わせた。
呼吸を詰め、生々しい痛みを飲み込むような表情で。
「病室に、帰ったほうがいいよ。秋葉…」
まだ癒えない傷跡には、初夏の風でさえ障るのかも知れない。
俺は秋葉の腕を取り、ゆっくりと立ち上がらせた。
エレベータを使わないのも、一種のリハビリなのだろう。
一刻も早く以前の自分へ戻りたいという思いがそこから見える気がした。
例えそこに心が追いついてこないとしても。
身体だけがそこへ戻っても、絶対的に以前の彼とは違うのだろうけれど。
秋葉は歩く。
階段を一歩ずつ降りていく秋葉の隣を歩きながら、俺はやはり言うべき言葉を探していた。
「薬師神、さん……」
ふと秋葉に呼ばれ、俺は笑う。
「違うよ」
「……?」
俺の言葉に、秋葉が不安げな表情を見せる。
「やくしじんって、舌噛みそうだろ?……ヤクさんって呼んでた、お前は。皆もそうだけど」
そうか。
とそこで俺はようやく答えを見つけた気がした。
秋葉が忘れていても、俺が覚えている事。
それを彼に教えていけばいいのだと。
時間がかかったとしても、秋葉は今、ここでこうして生きているのだから。
生きてさえいてくれれば、希望を持つ事が出来るのだ。
「俺とお前は、まずはそこからかな。ヤクさんって呼んでみな」
俺の言葉に、秋葉は初めて笑みを見せてくれた。