自動車警ら隊(リクエスト)

□過去
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古い書籍が山のように溢れた部屋。
壁際に置いてある、天井まで届きそうな本棚にもぎっしりと本が並べられていた。
床に積まれた本と本の間に、正方形の机と座椅子が置いてある。
日当たりはあまりよくない。
だが、エアコン意外の暖房器具を使えば、間違いなく火災になるだろうという予測は簡単に出来る。
実際、この部屋にはヒーターなどの暖房器具は無い。
それでも寒さを感じないのは、やはりこの部屋の住人が大好きな本に囲まれて満たされているからなのだろうか。
僅かに湿ったようでいて、誇りっぽい空気。
こういう部屋には、アレルギー性鼻炎などとは無縁の人物でなければ住む事が出来ないだろう。
住む事以前に、一歩も足を踏み入れる事さえ出来ないのではないだろうか。
秋葉はそう思い、僅かに笑った。
この部屋の住人は、こうして来客を意地悪くもてなしてくれる。
休日は日がな一日、この部屋で篭っている事が無上の喜び。
俗に言う、偏屈オヤジではないかと思う。
開け放たれた縁側のガラス窓。
玄関からインターホンで庭に回れと指示を受けて、秋葉は縁側に腰掛け、庭を見ていた。
水仙などの季節の花が咲き、雑草の類はきちんと引き抜かれている。
庭の手入れには労苦を惜しまない人間が、部屋の中は荒らし放題なのがおかしい。
再び秋葉は唇を笑みの形に結ぶ。
「何を笑ってる」
そこへ、ひとりの老人……老人と思われた事が分かると彼の機嫌を激しく損ねる事になるので、そう表した事は秘密だが。
この部屋の住人が盆に湯のみを乗せて廊下を歩いてきた。
今年66歳になるはずだ。
定年を大塚署の刑事課で迎え、最後の階級は警部だった。
退職したとはいえ、気分はまだまだ現役。
気分どころか、まだ交番で相談員として働いている。
やはり、老人というのは甚だ失礼だろう。
初老、という事にしておこう、と秋葉は思い直す。
彼の名を、佐々木正義という。
まさに名前からして、警察官が己の天職であると信じ切り、警察人生を全うした人物だ。
秋葉がこの場所を訪ねるのは、半年振りの事だ。
以前に会った時は、確かまだ黒髪の方が多かったように記憶しているのだが、ふさふさの髪は綺麗な白髪になっていた。
紺色の作務衣姿が妙にしっくり来すぎている。
しゃんと伸ばされた背筋は、現役の頃のままで。
今でも佐々木を訪ねて来る警察関係者は多いと聞く。
「佐々木さん。また…本が…増えましたね?」
丁寧に茶托に載せた湯のみを置かれ、それに手を伸ばした秋葉は呟いた。
佐々木は秋葉の隣に敷いた座布団の上に座り、その言葉を鼻で笑う。
「前にここに来た事もロクに覚えてもない癖に、生意気を言うな」
音を立てて茶を啜り、秋葉にも早く茶を飲めと無言で催促をする。
それを充分心得ている秋葉は、一礼して湯のみを手に取った。
静かにその茶を口に含み、ゆっくりと飲み下す。
佐々木以上に美味い茶を淹れる人物には、なかなかお目にかかったことが無い。
2つ年下の後輩である梶原が、今のところ秋葉が知る中では佐々木に次いで2番手だ。
佐々木は無骨なようでいて、繊細な所がある人物なのだ。
「…佐々木さんにお茶の淹れ方から教わったんですよね」
「………何処まで思い出した」
ほう、と一息つき、佐々木は呟く。
「どの記憶が本当で、どれが嘘なのか……分からない時があります」
秋葉は穏やかな口調でその問いに言葉を返す。
「記憶なんてものは、厳密に言えばその個人だけの持ち物だからな」
佐々木は立ち上がると、書斎へと入っていく。
秋葉がその姿を目で追うと、彼は雑然と積み上げられた本の山の中から、数冊のノートとアルバムを持って帰って来た。
一体、どうしてこの山の中から迷う事なく探しているものを見つけてくる事が出来るのだろうか。
秋葉は苦笑してしまう。
雑然としているようで、本人にとってはある一定のルールに基づき整然と積み上げられている、という事なのだろう。
手渡された大学ノートは、佐々木が若い頃からずっと書き続けていた業務用の日記のようなものだ。
何年、何月何日、何曜日。
その日の天気、気温。
何時に事件が起き、被疑者と被害者の様子はこうだった。
その後、裁判の行方まで追って、大きな事件については新聞記事などと共に達筆な字で書き連ねられている。
それは、守秘義務などの関係もあり、決して表に出る事はないノートだ。
佐々木は、それを秋葉に見せながら記憶を辿る手助けをしてくれていた。
既に退職間近だった佐々木の側で、秋葉が刑事として仕事をする事が出来た期間は短い。
それでもこうして秋葉は時折佐々木を訪ね、共有した出来事の記憶を分けてもらう。
なかなか同僚に頼む事はできない事でも、佐々木には言い出せる。
彼が既に引退していて、現場とは関係のない所で生きているからかも知れない。
秋葉がまだ医療センターに入院していた時の事。
事件を知った佐々木は、まだ意識が回復していない秋葉に面会する事を希望したという。
その時は、秋葉の状態がどちらに転ぶのか全くわからない時期だった。
どちらかと言えば、もう駄目かも知れないという空気が流れていたのかも知れない。
医者側にも家族側にも、生きている内に会いたい人には会わせておこうという考えがあったのだろう。
もちろん、それは秋葉が覚えている事ではないのだが。
佐々木を招き入れたICU担当の医師が、それこそ心臓を止めそうになるくらいの大声で。
佐々木は秋葉を一喝したのだという。
『この年寄りよりも、先に逝く事は許さん』
後から教えられたのは、そんな言葉だっただろうか。
その後も暇だから、と佐々木は秋葉を幾度も見舞ってくれた。
「相模の、も…スクラップしてあるんですね…」
一番新しいノートを開き、秋葉は目を細める。
「お前が関わっているからな……。裁判は、どうだ」
「分かりません……もう、俺に出来る事は無いかも知れない」
最後のページには、相模の精神鑑定の結果について報じられた小さな記事が貼り付けられていた。
「佐々木さん」
「………」
秋葉の呟きに、佐々木は秋葉の手からそのノートを奪い取ると、力任せにそれで秋葉の頭を叩く。
「いった……っ!!」
「情けない事を言うな。まだまだ甘いな、若造め」
派手な音を立てたノートをぽいと放り投げ、佐々木は笑った。
「お前と初めて会ってから、もう何年かな…。お前、幾つになった」
「………30になりました」
叩かれた頭を撫でながら、秋葉は答える。
ふん、と鼻を鳴らし、佐々木は持ってきたノートから一冊の日焼けしたものを取り出した。
そしてそれをゆっくりと捲っていく。
「そうそう、お前と初めて会ったのは………もう……8年も前か」
秋葉が刑事になったのは、佐々木が定年を迎える直前だった5年前。
ギリギリで、秋葉は佐々木と関わる事が出来たのだ。
初めて会ったのは、それよりも少し前。
まだ佐々木が機動捜査隊に居た時だ。
「暑い夏の最中をなあ…お前、交番のチャリでシートベルト違反の車追っかけてとっつかまえてたりしたよな」
「………そんな事は覚えてません」
佐々木の口から語られる、自分の過去は何処か他人事であり、そして少し気恥ずかしい。
今の自分が明らかに失っている情熱や、強い意志。
秋葉が忘れかけているそれを、佐々木がまだ覚えている。
佐々木はふと柔らかな笑みを見せ、ノートを更にぱらぱらと捲る。
「あれを見た時、こいつは面白いなと思ったんだよ」
「そんなの、見てたんだったら、助けてくれればよかったんですよ」
「嫌だよ。それは機捜の仕事じゃないからな」
楽しげに笑う佐々木の、シワが深く刻まれ始めた顔を横目で見て、秋葉はやはり苦笑した。
10分近くも道路を走る乗用車を自転車で追尾して、ようやくスーパーの駐車場に停車する寸前の車を捕まえ、違反切符を切ったところへ佐々木が来たのだ。
彼は涼しい顔をして、機捜車両で乗り付けた。
そう秋葉が言い切れる程の確かな記憶ではないのだが。
佐々木が言うにはそうだった。
冷房を効かせた車の助手席の窓ガラス開け、佐々木は秋葉とその男性ドライバーのやりとりを聞いていた。
汗だくでドライバーと言い合う秋葉の姿が、佐々木には好ましく思えた。
こんな若造が末端にいるのならば、まだ警察社会は捨てたものではないと。
『名前と階級は?』
中年のドライバーを言い負かし、違反切符を切り終えた秋葉に、その手順を食い入るように見ていた佐々木が問いかけた。
『え……?』
結局買い物もせずにアクセルを吹かして走り去る車を見送り、秋葉は今、初めて佐々木の存在に気付いたというような顔をする。
その顔はまだあどけなく、警察官になりたてという初々しい緊張感があった。
瞬時に佐々木が乗っている車両が警察車両だという事は分かったようだ。
そして腕の腕章で目の前にいるのは機動捜査隊の隊員だと分かるだろう。
『秋葉、です。階級は巡査です』
敬礼をして答える秋葉に頷き、佐々木は満足そうに笑う。
『所属は…この辺だと駅前の交番だわな?』
『はい』
そこは、都内でも扱う事件の多い方に分類されている、私鉄とJRが入っている駅の前にある大型の交番だ。
そこに配属されるという事は、前途に期待されている、という事だろう。
扱う事件が多ければ、検挙率を上げる事が出来る。
検挙率を上げれば、それだけ上へ行くチャンスが広がるという事だ。
それほど屈強な身体つきでもない秋葉が、その交番に新人のうちに配属されているという事は、つまりそういう事だ。
『…お前さん……刑事になりたい、ってか』
佐々木の言葉に、秋葉は強く頷いた。
『はい』
それが佐々木と秋葉の付き合いの始まりだった。


「もう、そういうのは…忘れてもらってもいいと思うんですけど」
楽しそうに語ってみせる佐々木に、秋葉は口を挟む。
「うるさい、一番大事なところだろうが、初心ってやつは」
手にしたノートが再度秋葉の側頭部を狙ってくるが、さすがに今度の攻撃は避ける事にする。
「で、この事件の時に、彼女さんと知り合ったんだよな」
とんとん、と佐々木はノートのとあるページを開いて叩く。
白昼、ナイフを振り回して暴れた犯人を取り押さえる際に、秋葉は奈穂に出会った。
「…………そう、なんですね」
佐々木の文字をひとつひとつ読みながら、その日の事を思い出す。
脚色も何もされていない、ただ、淡々と事実を積み上げたその文字は。
不思議と自然に記憶をよみがえらせてくれる。
その日の空の色まで、思い出せそうな気にさせてくれる。
事実を積み上げる、という事は凄味を含んでいる。
ページを進める毎に、秋葉はそれを見せ付けられるのだ。
佐々木の目には、自分など、本当にただの若造に見えるだろう。
秋葉は、何処まで行っても追いつく事の出来ないその背中を思う。
「ようやく刑事になって、陣野にくっついて、いっぱしの顔して捜査してるお前を見るのも楽しかったぞ?」
佐々木はぬるくなった茶をごくりと飲み、早咲きの桜の枝に止まった鳥を見つめる。
佐々木の中には、まだその頃の秋葉が生きているのだ。
「高知県から逃げてきた被疑者の供述書を真面目に全部、方言で書き取ったりな…」
「だから。そういうのは忘れてくださいって……」
梶原だけは乞われてもここには絶対に連れて来るまい、と秋葉は思う。
自分の失敗を知られているという事は、やはり居心地が悪い。
だが、何故か安心も出来るのだ。
恥をかく事も大切な事なのだと、秋葉は佐々木に教えられた。
「毎日、それでも精一杯前を向いて生きてたぞ、お前は」
不意に、佐々木が手を伸ばし。
秋葉の頭を乱暴に撫でた。
「それも、忘れたのか。そんなガラス玉みたいな目をしやがって」
秋葉は口を開こうとして。
何か言葉を返そうとして。
出来なかった。
「ゆっくりして行け。もう一杯、うまい茶を淹れてやる」
佐々木は震える声を隠すように、盆に湯のみを乗せ、立ち上がった。
早咲きの桜の枝で。
鶯が春の訪れを告げた。
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