公安第一課(裏?)

□雨の午後
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かろん。
という、今までのこの部屋には無かった音が耳に届き秋葉は短い眠りから目覚めた。
気怠い夕暮れだ。
今朝勤務があけ、ようやく明日一日が久しぶりの非番。
部屋の中には、自分が眠りに就くまでは確かにいたはずの梶原がいない。
何の気配もなく、秋葉は独りだった。
まだぼやけた意識のままで視線を動かすと、その音の主を窓の上の方に見つけた。カーテンレールから吊り下げられた小さなガラスの風鈴。
「………」
梶原の仕業だろう。
クーラーを切って窓を開けて風を入れていたために、その風鈴が時折音をたてるのだ。
耳に心地良いその音を聞きながら、秋葉は身体を起こす。
喉の渇きを覚え、その足でキッチンに向かった。
微かに麦茶のにおいが残っていて、秋葉は狭いキッチンを見回した。
梶原がこの部屋に入り浸り始めてから、今まで無かった物がいつの間にか増えていく。
「…やかん……?」
1.3リットルサイズの、ステンレスのやかんがIHヒーターの上に置かれていた。
そんなものは今までここには無かったし、『生活感』というものと随分長い間縁が無かった自分の部屋が少しずつ変わっていく。
冷蔵庫を開けると、空いたペットボトルの中に麦茶らしきものが入れられていた。
秋葉は食器棚からグラスを取り出すと、その麦茶を入れてテーブルに置く。
そこにも見慣れないものがあった。
一冊の本だ。
「…宮沢賢治……」
それは詩集だった。
これも秋葉の趣味ではない。
栞を挟んであるページを、何気なく開いてみる。
「春と修羅…?」
宮沢賢治というと、秋葉は『銀河鉄道の夜』と『雨ニモ負ケズ』程度しか知識としては知らず。
梶原はこういう嗜好を持っているのだと、改めて知る。
そういえば、どちらかと言えば彼は理系というよりは文系の感覚を持っているのかも知れない。
梶原はいつも、理屈や常識では割り切れない物を理解しようとする。
答えは常にひとつだけでなくてもいいのだと。
何のこだわりもなく笑いながら。
仕事の上では自分たちはただひとつの答えにたどり着かなければ、そこに存在する意味がないのだが。
強い風が吹き込み、風鈴が今までよりも大きな音を立てた。
ベランダの窓から部屋に入ってくる風が湿り気を帯び、秋葉が窓に近寄ると同時に遠雷が鳴った。
ほどなく大粒の雨が空から落ちてくる。
風に煽られて、一層鳴り始める風鈴。
そのくるくると揺れる姿を見つめながら、秋葉はそっと窓を閉めた。
梶原は何処へ行ったのだろう。
(傘は持っていったのかな……)
そう思いながら、秋葉は玄関へ向かった。
律儀に鍵をかけて出ていったらしい梶原の、大きなスニーカーは、今はそこには無く。
秋葉は薄暗いその場所で、突然例えようのない喪失感に襲われた。
先程まで梶原が読んでいたと思われる詩の一節が頭をよぎる。
この感覚は何だろうか。
秋葉は分からないまま立ち尽くした。
「ひかりはたもち……その電燈は失われ……」
今覚えたばかりのその詩を震えそうな唇で呟いてみる。
その時。
通路を走る軽い足音がして、ドアの鍵が外から開けられる。
がちゃりと開いたドアの向こうから、ずぶぬれの梶原が顔を覗かせた。
「ただいま〜!!ああもう、降られちゃった。びしょ濡れです」
目の前に立っていた秋葉に驚きもせず、梶原は笑ってそう言った。
Tシャツは濡れて肌が透け、ジーンズは水を含んで重たそうだ。
「あ、と。ごめんなさい、シャワー使わせてください。そこまで廊下濡らしちゃいますけど」
そしてやはり雨に濡れて重たそうに変色したスニーカーを脱ぎ、梶原は廊下に上がった。
ぱたり、と水滴が落ちる。
「秋葉さ…」
秋葉が不意に、梶原に無言のまま抱きついた。
勢いで梶原は壁に押し付けられる。
「どうしたんです、か」
その言葉すら言い終わらないうちに。
秋葉は梶原の唇に自分の唇を重ねた。
じわじわと秋葉の服までが濡れていく。
それを気にして梶原は秋葉を抱き締められずにいた。
「どう、したの…?」
秋葉は唇を離した後も、梶原の身体を離さない。
ただ、その首に両腕を回し梶原の肩に顔を伏せたままで。
梶原は、ようやく秋葉の背中をきつく抱き締めた。
そのままずるずると床に座り込む。
「秋葉さん、どうしたんですか?」
「分からない」
震える声で秋葉は呟いた。
「どうしたいの?」
「分からない」
それだけを繰り返す秋葉の頬を両手で包み込み、無理に視線を合わせれば、迷子の子供のように少し怯えた目がそこにあった。
梶原の胸に、ふと切なさが沸き起こる。
「ちゃんと、言って…?」
どうしたいのか、どうして欲しいのかを。
「言ってくれないと、分からないから…」
秋葉の心が何を求めているのか。
その声で、言葉で、聞かせて。
「どうして欲しいのか、言って…」
梶原の髪から落ちた水滴が、秋葉の前髪に止まり、そこからまた流れ落ちる。
「独り、に…なりたく、ない」
そう、独りに慣れていた秋葉に、新たに『孤独になる恐怖』を植えつけてしまったのは自分だ。
「うん……」
梶原は秋葉の背中を撫で、雨に濡れた頬で秋葉の髪に触れる。
秋葉は、傷ついた子供のようで。
それ故に愛情を表現する言葉を持たない。
だから一からそれを伝えていかなければならないのだ。
彼の信頼を裏切らないという証と。
その上で成り立つ心の通わせ方を。
「あ〜あ。秋葉さんまで濡れちゃいましたね。シャワー浴びて着替えますか?」
「……ごめん…」
僅かに秋葉は笑い、梶原から手を離した。
「どうせなら、このまま濡れちゃいましょうか。何か、子供みたいで楽しくないですか?」
そう言って梶原は秋葉の手を引き、浴室へ入る。
温めに設定したシャワーを出し、秋葉より若干高い身長である事を特権にして、秋葉に湯を浴びせた。
「なぁんか。やりませんでした?中学生の時とか。着衣水泳」
ひとしきり秋葉を自分と同じようにびしょ濡れにして、梶原はシャワーを元のように固定した。
「やった…気はするけど。あんまり気持ちよくない…」
大量の水を含み、じっとりと肌にはりついたTシャツを掴み、秋葉は顔をしかめた。
この重みに体力を奪われていくような気がする。
「ここで脱ぎます?」
「どっちにしろ、脱がなきゃどうにもなら…な……」
先程は秋葉から仕掛けられた口付けを、今度は梶原が秋葉に仕掛ける。
「濡れてて脱ぎにくい」
秋葉がそう言って笑うので、梶原もつられたように笑う。
「ホントだ」
梶原は秋葉のTシャツを、時間をかけて脱がせる。
「俺のも脱がせて」
そして秋葉を試すように。
瞳を覗き込んでみた。
秋葉は梶原を見上げてそのシャツに手を伸ばした。
「マジで脱がせにくい…」
「でしょ」
じゃれあいながら引っ張るようにそれを脱がせて、二人は笑った。

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