公安第一課(裏?)

□幸福の形
1ページ/1ページ

惜しげもなく

その笑顔を与えて

何よりも強く

幸福の形を

まるで道標のように

目の前に指し示す



意識は深く沈み、闇の中に引き込まれる。
(あんな絵を、見たから……)
秋葉はそう思った。
昼間、崎田から見せられた相模の描いた絵を見たからだろう。
いつになく苦しい、形のない夢を見ていた。
目を閉じているのか、開けているのか。
呼吸をしているのかさえ、定かではない。
混沌とした世界の中で、秋葉は独りだった。
そしていつも、この足は逃げようとして後ずさる。
必死で握り締めている手のひらは、何もかもを手放そうとする。
常に秋葉は境界線の上に立っていた。
後ろは振り返っても何もない、ただの闇で。
目の前には。
自分が望めば、光ある世界が見えてくるだろうか。
それを望む事は、許されるだろうか。
そして秋葉は、結局はどちらにも踏み出せないままこの場所に立っていた。
(何処に、行けばいい……)
逃げ出さない代わりに、足を踏み出すことも出来ない。
(何処に……)




ひやりとした、冷たく心地の良い感触が額と頬に触れ、秋葉は薄く目を開いた。
これで夢から覚めたはずなのに、呼吸が苦しい。
天井の明かりが目に入り、眩しかった。
視界をはっきりさせるために、秋葉は数回ゆっくりと瞬きをする。
「雨に濡れてたんですか……?」
静かな声が降ってきた。
起き上がろうとした身体をやんわりと押し戻される頃には、秋葉は自分の呼吸が本当に苦しいのだと認識する。
寒気を感じて僅かに震える身体は、恐らく熱を発しているのだろう。
「熱がちょっと高いんで……起きちゃ駄目です」
秋葉を見つめながら、ベッドに腰掛けて梶原はそう呟いた。
いつもなら温かいその手のひらが、今日は冷たい。
「冷たいですか?今、手を洗ってきたから」
秋葉の頬を撫でながら梶原は笑った。
「何時……?」
掠れた声で問いながら、秋葉は目を細めて壁の時計を見ようとした。
「11時です。夜の」
「…………いつ、来たんだ」
秋葉が帰宅したのは、午後4時頃だった。
それからシャワーを浴びてベッドに倒れこんだところまでは何とか記憶がある。
「8時くらい……かな」
「気付かなかった」
溜息と共にそう呟く秋葉を、梶原はどこか悲しげな眼差しで見ていた。
「ずっと微熱が続いてたじゃないですか。駄目ですよ、わざわざ雨に濡れたりしちゃ……」
その目が、何かあったのかと無言で問いかける。
秋葉は頬に当てられた梶原の手に、横向きに姿勢を変えながら自分の手を重ねた。
「病院行きますか?」
「嫌」
即答する秋葉に、梶原は笑う。
「だと思った。でも熱が下がらなかったら有無を言わさず病院行きですからね。とりあえず、明日の朝まではそういう我がまま言ってていいですよ」
梶原は、秋葉の御し方を心得ている。
何事も最初は秋葉自身に判断を任せ、このような緊急を要する事態の場合ははっきりと期限を切る。
それ以上は秋葉が何を言おうが梶原も一歩も引かないというラインを引くのだ。
秋葉は滅多に弱音を吐かないし、こんな時でさえ、苦しいという言葉すら口に出さない。
ただ、目が覚めた時に梶原が側にいて。
それだけで安堵したという事を、重ねた手のひらで伝えてくる。
「何があったのかは……話したくないですか?」
秋葉は梶原の手に重ねていた手を離し、胸元で固く握り締めた。
「お前の記憶には……本当に何一つ誤りはないのかって……言われた。相模の弁護士に」
そして秋葉は目を閉じて自嘲するように笑う。
「そんな事は……俺にも……」
梶原は既に温まって秋葉の頬を冷やすには役にたたなくなった手のひらで、秋葉の背中を撫でた。
断片的ではあっても、秋葉の口から感情が言葉になって表わされるのであれば、そのありのままを聞いていたいと梶原は思う。
震える背中を宥めるように撫で、小さく掠れた秋葉の言葉を一言も逃さないように耳を澄ませた。
「分かる訳がないって………」
例えば。
梶原が秋葉と共有した記憶であれば、それを秋葉に分け与えることも出来るだろう。
梶原に限らず他の同僚や家族や友人でも。
秋葉の母親が、彼が生まれた時からの話を必死で秋葉に語ったように。
しかし、相模との記憶は違う。
秋葉がこの裁判に必要とされる証言をやり遂げるには、たった独りで体験した記憶を語らなければならないのだ。
確かに、秋葉の確固たる記憶は相模に拉致された時から始まっていて、そこは恐らく誤りのない記憶なのだろう。
人の心は、様々な記憶から構成されている。秋葉が一度、その全てを手放してしまったのは、そうしなければ極限状態の中で生命を維持できないと脳が判断した為で。
失い、そして時間をかけて秋葉が取り戻していった記憶はひどく脆いものに思えた。
「分かる訳がない…記憶なんて誰にも肯定できないんだから。そう思ったら……何だか分からないけど…動けなくなった」
「それで雨に濡れてたんですか」
「…もう……逃げたい、けど…逃げたくない」
逃げたくないというよりは、逃げられないのだ。
生きている以上はどう足掻いても己から逃げる事はできない。
秋葉にはそれがよく分かっている。
「秋葉さん」
秋葉はシーツの上に顔を伏せてしまう。
震える声を隠すように。
「知るかよ……」
それは秋葉の偽りのない本音だと梶原は感じた。
「どんなに確信を持ってたって……間違ってるかどうかなんて……」
不意に揺らぎ、手の中から零れ落ちるほど頼りない記憶。
その不安定さを的確に攻撃してきた弁護士は、やはり狡猾だと思う。
対抗するだけの精神力を立て直す暇も与えぬまま、棘だけを心の深くに残して。
梶原は色を失うほど強く握り締められた秋葉の手を右手で包んだ。
「秋葉さんは、他の何者でもなくて」
左手は少し汗ばんだ髪を撫でる。
「そのままでいいんです。それでも文句言う奴がいたら、今日は俺が追い払っときます」
「………馬鹿」
「だって、そうでしょう。秋葉さんはちゃんとここで生きてるんだから。誰にもそれを否定する権利ないじゃないですか。でも、そのかわりに秋葉さんには幸せになる義務があるんですよ」
幸福になる『権利』ではなく、義務が。
梶原は穏やかに言葉を続けた。
「秋葉さんは、生きて。絶対に幸せにならなきゃ駄目なんです」
秋葉は顔を上げない。
「秋葉さんは、誰に何を言われようがこのまま生きていけばいいんです。誰が否定しても、俺が肯定します」
生き続けて『幸福』になる事は自分には許されないと、半ば強迫観念のように秋葉は思っている。
その心の動きが痛い程理解できる梶原にとって、秋葉のその思い込みがいつも悲しかった。
「ひとつだけ、約束します。秋葉さんは約束とか欲しがらないから、ひとつだけ。俺は秋葉さんが……例えば耐えられなくなって自分と向き合うことから逃げても……この手は俺からは絶対に離しません。絶対に、です」
たとえ秋葉がこの言葉を信じなくても。
秋葉の心に、この言葉が届くようにと願う。
もしも秋葉が全てを投げ出して心を閉ざす事があったとしても、その度に自分はこの手で秋葉を引き戻そうと梶原は思っている。
そのために、この手があるのだと。
「だから、もう……泣かないでください」
「………ごめん……」
秋葉の呟きに、梶原はただ笑う。
「秋葉さん、いつも日本語の使い方間違ってます。こういう時はね、そんなマイナスな言葉を使わなくてもいいんですよ」
その言葉に、秋葉が微かに笑う気配がした。
「秋葉さんて、ほんとに大変。言葉から教えなきゃ」
「……ありがとう………」
秋葉は、小さく呟いた。




その手をとって
光ある、幸福の形を見せ続けよう

あなたに。


080718

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ