公安第一課(裏?)

□幽夢
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もう


随分と長い間


君の声を聞いていない



(柊二……)
すぐ側で名前を呼ばれた。
懐かしい、優しい声で。
秋葉は振り返り、その声の主を探した。
「……奈穂」
そこに彼女がいた。手を伸ばせば触れられる距離に。
秋葉は安堵する。
これまでの出来事は、全て夢で。
こうして彼女は生きて自分の目の前に存在するのだと。
(柊二……)
しかし。
それはただの錯覚でしかなく。
彼女は悲しげな目をしたまま、秋葉を見ている。
透明な水滴が彼女の頬を伝うのを、ただ、どうにかして止めたかった。
秋葉は手を伸ばし、奈穂の身体を抱き寄せる。
もう、独りで泣かなくていいのだと伝えたかった。
「………っ」
不意に触れた肌の感触が消え、さらさらと音をたてて奈穂の身体は砂のように形を失っていく。
「……奈穂……!」
そして最後のかけらが、指の間からこぼれ落ちた。




馴染んだ声に揺り起こされ、秋葉は目を開ける。
いつものように、悪い夢を見ていたのだと思った。
こうして目を覚ましてしまえば、全てが終わる。
「秋葉さん、起きて。奈穂さんが」
秋葉は眉をひそめた。何故彼が奈穂の名を口にするのか。
微量の違和感が胸の内に生まれた。
「……ほんとは生きてたんだって」
自分を揺さぶる冷たい手。
……違う…。これは。
「あ、き、ば、さ、ん……」
奈穂と同じように、やはり形を失っていく梶原の指先。
彼女と同じように、梶原を失う恐怖。
秋葉は声にならない悲鳴を上げた。




現実の、生きている者の声で呼ばれ、生きている者の質感で。
手首を押さえつけられる。
秋葉は自分の荒い呼吸音を聞きながら目を開けた。
温かい手の感触。
これで本当に、ようやく悪夢から逃れたのだと思いながらも、梶原の顔を見ることが出来ない。
秋葉は手を握り締め、固く目を閉じる。
「嫌だ………」
震える声でその言葉だけを繰り返し、梶原に押さえつけられたまま何度も首を振った。
「秋葉さん」
梶原は、秋葉の右手首を捉える手に力を込める。
「大丈夫だから…目を開けて、俺を見て」
空いた手で、秋葉の冷たい頬に触れる。
そして肩から腕を何度も撫でた。
秋葉がどんな悪夢を見たのかは分からない。
ただ、ひどく恐ろしい世界に突き落とされたのだろうという事だけは、その怯えた姿で分かった。
秋葉はなんとか目を開けたものの、未だに焦点が定まらない。
「こっち見て……ゆっくりでいいから」
髪を撫で、落ち着かせる。
梶原は、押さえつけたままの秋葉の手のひらが、痛々しい程にまだ握り締められている事に気付いた。
「秋葉さん。手のひら、開いて」
秋葉は苦しげに顔をしかめ、梶原の手から逃れようとする。
「違う。手を開くんです。そんなもの、ずっと握ってちゃ駄目」
目覚めた後まで、そんな悪夢のかけらを握っていては駄目だと。
夢はあくまでも夢で。こちら側の世界にまで持ってきてはいけないのだ。
「それ、手放したら…楽になるから」
梶原は、秋葉の手首から親指だけを離し、秋葉の手のひらに食い込んだ小指を押し上げた。
そのまま固まってしまった関節を伸ばしていく。
「薬指、動かせますか?」
梶原の声と、その指に促されて、秋葉はぎこちなく薬指を動かした。
「そう、上手」
そして梶原は、ゆっくりと一本ずつ、秋葉の右手の指を開かせた。
「ほら、ね?これでもう………悪い夢はおしまい」
爪痕がくっきりと残された手のひらを撫で、悪夢を手放した空虚なその場所を、梶原は自分の手のひらで包んだ。
徐々に秋葉の呼吸が落ち着き、やがて全身が沈み込むように脱力する。
「もう大丈夫」
それは半ば暗示のような言葉。
秋葉は深い吐息と共に、再び意識を眠りへとさまよわせる。



(奈穂さん……)
もうこの世にいない彼女を、梶原は呼んだ。
(もう、秋葉さんを……自由にしてあげて下さい)
あなたの『死』が、未だに秋葉をこんなにも苦しめているのだと。
心の中で祈る。
そして。
秋葉も、もう彼女を自由にしてやればいい。
梶原は彼の手を握ったまま眠りに墜ちていく秋葉を見つめた。



真夏の夜は


時折



あなたに悪夢を見せる

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