公安第一課4(裏)

□幸せであるように
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秋葉が梶原の姉、依子に呼び出されたのは、7月28日だった。
月曜日。
正確にはその前の週にきちんとした約束を取り付ける連絡を受け、夜勤明けの28日を秋葉が指定した。
依子の住居がある埼玉の川越ではなく、彼女が都内に出てくるという。
店は依子が指定した池袋のカフェだった。
最近出来たばかりの、雑貨も取り扱っている店らしい。
夜勤が明け、少しだけ書類整理が長引いて。
約束は13時。
弟である梶原には内緒にしてくれと頼まれた秋葉は、訝しむ梶原に適当な理由を告げて外出した。
外は暑い。
地下鉄の車内と外との温度差に身体がおかしくなりそうだった。
10分前には指定された店についたのだが、依子は既にそこにいて秋葉を待っていた。
にこり、と笑うその顔は梶原と似ている。
いつも着物を着ている印象があったが、今日は濃いブルーのシャツと白いクロップドパンツ姿だった。
「すみません、お待たせしましたか」
「ううん、5分くらいよ。気にしないで」
依子の前に置かれたアイスコーヒーのグラスの外側についた結露の様子を見ると、彼女の言う事は嘘ではないらしい。
無意識にそんなどうでもいいような事を探る自分に内心で苦笑し、秋葉は水を運んできた店員にアイスティーを頼んだ。
「ごめんね、柊君。お仕事忙しいのに時間とってもらって」
「いいえ……」
依子は秋葉を、柊君と呼ぶ。
兄の比呂には柊と呼ばれるので、その響きには違和感はさほど覚えない。
私用の携帯のアドレスは教えたが……教えないとどうなるか分かっているだろうな、という脅しに屈して……こうして依子が実際にコンタクトを取ってきたのは実は初めてだった。
自分の知らない所では、梶原が両親や兄、義姉と連絡を取り合っているらしい。
電源を入れさえしなかった使用の携帯は、今は電源を入れただけという状態になっている。
以前のように接触を拒んでいる訳ではないが、まだ自発的にそれをする事がなかなかできない。
そんな秋葉の様子を、梶原は秋葉の家族にそれとなく伝えている。
「お子さんは元気ですか?今日は……」
「ああ、もう元気元気。今日はお店が休みだから、主人に丸投げして久々の息抜き」
依子は優雅な手つきでグラスを引き寄せ、ストローを口に含んでアイスコーヒーを飲む。
「久々の息抜きに俺に会っていて、いいんですか」
久々の休日ならばもっと有意義に時間を使うべきではないだろうか。
家事と育児と、店の切り盛り。
そして商工会の付き合いと、依子は恐らく目の回るような忙しい日々を送っている。
その疲れも苦労も一切、外には見せないのが彼女の尊敬するべき所だ。
「柊君。あなたに会いたいから来たのよ。これも息抜きのひとつ」
依子はしっかりと秋葉の目を見て会話する。
正確には、目ではなく、鼻のあたり。
これが一番相手を不快にさせない視線の置き方らしい。
そんな所も梶原と同じで。
恐らく彼らの両親か祖父母か身近な人たちが、こうしてまっすぐに人と向かい合う性質を持っていたのだろう。
自分はどうだろうか、と秋葉は思う。
自分だけが、異質なものになってしまった。
それを周囲が懸命に軌道修正しようと手を差し伸べてくれたけれど。
その手を取っていいものかどうか迷っているうちに。
「あのね。柊君」
呼ばれて、秋葉は目を上げる。
いつの間にか目の前に、コースターに乗せられたアイスティーが置かれていた。
「きっとあなたの事だから。いろいろめんどくさい事を考えてるんだろうなって思って……秀君とのこと」
決して万人に受け入れられる関係ではない。
自分の事はまだいい。
自分はこれ以上、誰とも切り結ぶ気もなく、このまま何も遺さずに命を終えた方がいい人間だと心底思っているから。
しかし、梶原は。
いつも、ふとエアポケットに落ち込んだように、そんな思いが心を浸蝕してくる。
それが、自身を投げ打って秋葉の命を救おうとして、現に命を救ってくれている梶原に対していかに侮辱的な思いなのかは分かっていた。
それでも。
梶原を、梶原の人生を奪ってしまったような気がして。
「ほら、やっぱり」
依子は右に少し首を傾げて、笑った。
「……確かに、考えるよね」
声音を落とし、ひどく優しい声で。
「これは、私だけの考えじゃなくて。私と家族の考えなんだけど。私たち、秀君が幸せならそれでいいの。あの子がちゃんと生きていてくれたらそれでいいの。店は私や主人が継いでるし、この先もし廃れて閉店ってなっても、それはそれで運命だと思ってる。そんなものに縛られるより、あの子には自由でいてほしいし、何より生きてほしい」
与えられた命を、懸命に自分らしく生き抜いてほしい。
依子はそう言った。
秋葉は視線を揺らす。
店の入口付近にある雑貨コーナーには数人の女性客がいて、更にカフェのスペースにも数人の客がいた。
どうして依子はこの場所を選んだのか、秋葉には分からない。
さわさわと動く人の気配を何処か遠くに感じながら、秋葉はもう一度依子に視線を戻した。
「あなたにも。同じように幸せになってほしい。生きてほしいの。これは多分、私たち家族とあなたの家族の願いだと思う」
喪うばかりだった。
大切なものは、全部零れ落ちた。
どうして自分は生きているのか、常にそれに答えが出せなかった。
「少しずつでいいの……少しずつでいい。柊君」
この人はいったい、何なのだろうか。
秋葉は微かに他人事のように自分と依子を見ている。
「生きてほしいの。そして秀君を幸せにして」
その言葉の後に、依子はまた笑んで。
「お姉ちゃんからのお願い」
ああ、そうか、この人は。
豪快で、快活で、ひどく優しい。
姉、なのだと。
秋葉の心の中にその存在がコトリと音を立てて落ちた。




「梶原」
8月2日土曜日、正午。
秋葉はパソコンの画面から目を上げずに、隣席にいる梶原を呼ぶ。
「はーい」
今朝から明日の正午までが秋葉の勤務時間になる。
梶原は今勤務が明けた所だった。
8月3日は秋葉にとって大切な日だった。
梶原の誕生日だ。
彼が生まれていなければ。
彼が警察官を志していなければ。
彼が自分と会わなければ。
当たり前だけれど、きっともっと違う人生が彼にはあっただろう。
それを自分に置き換えてみると、やはり自分にも違う人生があったに違いない。
それでもお互いに、信じて選んでここまで来たのだ。
それを否定だけはするまい、と秋葉は思う。
「はといの間を伸ばすな」
「はいー」
最近もしかして、梶原は影平に感化されて来たのだろうか。
秋葉はひとつ舌打ちをした。
「後でメールする」
「はい」
目を合わせる事は無かった。
仕事とプライベートの区別は厳しい程に区切りをつける。
ただ、梶原は当たり前のように秋葉の部屋へ帰るし、そこで眠る。
「お疲れさまでっした!!」
定刻で終業できるのは滅多にない幸運だ。
「お疲れ」
梶原以外にも、陣野や薬師神が勤務明けになる。
一通り、課員の入れ替わりが終わってから、秋葉は私用の携帯を取り出した。
もう梶原は護国寺の駅に向かっているだろうか。
明日の午前中に梶原宛の宅配便が届くので、それを受け取ってほしいという内容の短いメールを送る。
『はーい』
1分待たずに返信が来た。
文字で見るのと、実際に声で聴くのではどうしてこうも印象が違うだろうか、と秋葉は首を傾げながら携帯を閉じた。



8月3日14時過ぎ。
秋葉が夜勤の日には、何故か夜間によく出動案件が起きる。
結局仮眠も取れず、しかしそんな事にはもう慣れっこだ。
今から帰宅するというメールを梶原に送り、返信は見ずに地下鉄に乗った。
職場から離れると共に、少しずつ疲れを覚える。
それだけ気を張っているという事なのだろう。
自宅の扉の前まで来て、鍵を取り出そうとしていると内側から扉が開いた。
「おかえりなさい」
ああ、やはり梶原と姉の依子は笑顔がとてもよく似ている。
秋葉はそんな事を思い、ただいま、と言った。
「宅配、受け取りました」
「まだ開けてないのか」
「一緒に開けようと思って」
きっと、その中身が誕生日のプレゼントだと、梶原は分かっている。
「……誕生日おめでとう」
顔を見たら真っ先に言うつもりだった言葉が、少し遅れてしまった。
秋葉は鞄の中から小さな包みを取り出す。
「これも、プレゼント。気に入るといいんだけど」
「……マジですか。開けていいですか?いや、どっちから開けるべき?」
梶原の大きな手のひらにその包みを置いて、秋葉はシャツのボタンを2つ外す。
それでようやく、仕事モードの表情を少し和らげた。
「どちらでも。お前の好きな方で」
「……大きいつづらと小さいつづらのお話みたい!!」
梶原はそんな事を言って笑う。
結局、先に手元に来た宅配便の箱から開ける事にしたらしい。
秋葉はそれを若干の緊張を持って見守る。
喜んでくれるといいけれど、という思いに緊張するのだ。
「秋葉さん、俺が欲しいものよく分かるよね。多分口に出してないと思うんだけど」
ギフト用にラッピングされた袋を開け、中から出てきたのは製麺機だった。
梶原は料理が好きだ。
ここにいても大体ほとんど料理を作るのは梶原になっている。
秋葉も一応料理をするにはするのだが、何となく、役割分担がそうなってしまっていた。
無水鍋だったり、琺瑯ケトルだったり。
梶原がふと興味を示すものは料理に関するものが多い。
「よっし、これで秋葉さんにおいしい麺類を食べさせよう」
顔を上げて、梶原がそんな事を言う。
梶原に与えられてきたものに対して、自分はまだそのほとんどを返す事が出来ていないと秋葉は思う。
それでも梶原が幸せそうに笑うと、凍ったままだった心が少し暖かくなる感覚は幾度も味わってきた。
「こっちは……」
「あっ!!駄目、言わないで!!開けるから言わないで!!」



誕生日、おめでとう。
これからもずっと、側にいる事ができますように。

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