捜査本部(中編小説)

□未定(笑)
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第1章
「爪痕」



午前6時30分。彼は目を覚まして、ぼんやりと天井を見上げていた。
マンションの前にある公園から蝉の鳴き声が聞こえてくる。朝から空気が暑い。
8月も終わりに近づいているが、連日の暑さで彼は少々疲れ気味だった。
今日も暑くなりそうだ。起き上がって窓を開けると、いっそう蝉の声が大きく聞こえた。台風が近づいているので、生暖かい風が入ってくる。
生まれつき茶色の髪が、不意に吹いた強い風に煽られる。脳が酸素を求めているらしく、2回大きなあくびをした。
彼の職業は刑事だった。大塚署の刑事課に配属されて2年目のひよっこだ。
2歳年上の仕事のパートナーから『柴犬』と称される28歳。
180センチの長身だが、顔立ちは童顔の部類に入ると思われる。最近ようやく書類をまともに作成する事が出来るようになった。
何しろ恐ろしく仕事の出来る先輩ばかりで、何事も人並み以上を目指さなければ追いつかない。
眠い目をこすりながら、キッチンへ向かい、冷凍庫からカチカチに凍った食パンを取り出した。
いつ帰れるか分からない事が多く、日頃からなるべく部屋の中に生ものを置かないようにしている。
トースターに食パンを2枚放り込み、タイマーをセットする。蒸し暑い廊下を通り、玄関から新聞を取って部屋で広げた。
「あ、そうか。明日裁判なんだ…」
以前都内を騒がせ、彼のパートナーを巻き込んだ事件。その犯人の5回目の公判が行われるという記事が目に留まった。3人の女性を殺して、さらに刑事を拉致し重傷を負わせた相模という男だ。検察は極刑を望んでいたが、弁護側は徹底的に抗戦する構えだった。
「秋葉さん………大丈夫かな」
寝巻き代わりのTシャツを脱ぎながら、彼、梶原秀樹は呟いた。




同時刻。眠れずに朝を迎えた彼は、ライターを取り出して煙草に火をつけた。
禁煙していたわけではないが、しばらくやめていた煙草を最近吸い始めた。
尖ってしまった神経を麻痺させるために。
朝食を取らないのは日常だし、既に出かける準備は出来ていた。
後は自分の足が外に出る一歩を踏み出すだけだ。手元には数日分の新聞がある。
一番上の、昨日の朝刊に昨年4月に都内を騒がせた連続殺人事件の裁判関連の記事があった。
彼は紫煙を虚ろに目で追った。
彼の名前を秋葉柊二という。29歳、警官になって7年、刑事になって今年で4年目になる。
最近実年齢より上に見られる事が多くなった。別にそんな事は気にならないが、去年から組んでいるパートナーが童顔だからだと、彼は内心思っている。
自分より5センチ程身長が高いその男は、昔飼っていた柴犬に雰囲気が似ている。
テーブルの上に置いていた携帯が鳴り始め、秋葉は手にしていた煙草を灰皿の上に置く。
「…………はい」
着信表示を見て、気は進まなかったがボタンを押して携帯を耳に当てる。忙しくて切りに行けない黒髪が目にかかって邪魔だった。
「秋葉?悪い、こんな時間に」
「……」
相手は顔なじみの検事だった。秋葉と高校が同じで、部活でも一緒だったという。
他人事のように感じるのは、自分が昨年4月に自分に関する一切の記憶を無くしているからだ。
「明日の裁判。本当に、大丈夫か?」
秋葉は右手で新聞をくしゃりと潰した。無性に苛ついて仕方が無かった。
「証言は多分無理だって、精神科の先生には言われたんだけど。引き受けてくれて良かった。弁護団は相模を心神喪失と自殺幇助で減刑に持ち込みたいみたいなんだ」
この検事の名は崎田といった。
「精神科なんて、ずっと行ってない」
秋葉は目を閉じて前髪を掻き揚げた。
「そうらしいな。医者も今のお前の状態が分からないって言うから、ちょっと心配になってきて。本当に大丈夫か」
「大丈夫だよ」
自然に口調は硬質なものになっていく。
「もしかして、あまり眠ってない?」
簡単に自分の状態を悟られるようではまだまだだ。秋葉はまだ火がついたままの煙草に手を伸ばし、素手で握りつぶした。
あまり痛みは感じなかったが、少し頭がはっきりしてくる。
「あまり役に立てないかも知れない。俺の事は気にしなくていい。俺が証言することで、あの男が外に出てくる事を食い止められるなら、俺は行く」
秋葉はそう言った。崎田もそれ以上何かを言う事はなく、じゃあ法廷で、と言い通話を終わらせた。秋葉はもう一度新聞の見出しに視線を移した。
『都内連続殺人5回目の公判』
秋葉は立ち上がった。癒えたはずの左肩の傷口が痛む。もう一度あの男に会わなければならない。それが怖かった。
「秋葉さ〜ん、おはようございます〜」
マンションを出た所で間延びした声に呼び止められた。秋葉は横目でそちらを見たが、足を止めることは無かった。
「あれ、冷たいなあ。せっかく待ってたのに。今日は非番でしょ?何処へ行くんですか?」
満面の笑みを浮かべてはいるが、その目は笑っていない。
「明日、出廷するんでしょ?相模の裁判」
彼の職業は記者だった。警察署に詰めている事件記者だ。
秋葉も数回顔を見たことはあったし、以前名刺をもらったこともある。
確か五頭俊哉とかいう名前だった。正確な年齢は知らないが、秋葉よりも少し年上だろう。無精髭なのか意図的に生やしているのか分からない髭面と、これも切る暇がないのか意図的に伸ばしているのか分からない、後ろでひとつにまとめられた長髪がトレードマーク。風貌とは反対に、何処となく隙のない男だった。
「俺も行きますよ。秋葉さんがどんな証言するのか聞きたいから」
秋葉がどんなに無視をしても、五頭は食い下がる。
「俺はあの時、ずっとあなたを見ていた。相模が転落する所も、あなたが運び出される所も。あの時何があったのか、あなたは明確に覚えているはずだ」
あの事件は大きく報道された。
警察が相模の恋人のマンションを取り囲む場面や、転落していく相模の姿。
そして救出されて救急車に運ばれる秋葉の姿は、多くの報道陣によってリアルタイムで日本中に流された。
秋葉が客観的に事件を飲み込むには非常に役立つ映像だった。
それを見た時に、何故自分が助かってしまったのか、不思議だった。
(俺は死にたかったのか?)
記憶が戻る前に、まず漠然とそう思った。そして、心に生まれた空洞を元には戻せない気がしていた。
『あの時何があったのか』『覚えているはずだ』というその言葉は、既に聞き飽きている。客観的に自分の身に起きた出来事を情報として蓄積した記憶と、主観的な生々しい記憶と。その2つが今自分の中にある全てだ。
無理に思い出す必要はない、と言われながらも、自分が思い出さなければ捜査の進展が望めない事項もあった。
ただ、記憶をたどる過程に苦痛があったことも事実だった。
いくつか、どうしても思い出せない事もまだ残っている。
「怖いんですか」
何も答えず歩く秋葉の背中に、五頭はそう問いを投げかけた。秋葉は歩みを止め、ゆっくりと五頭を見据える。
「悪いですか?怖いですよ。相模に背中を見せるのは。こんな仕事をしてなかったら、俺は2度とあの男には会いたくない」
自嘲を含んだ笑みを浮かべ、秋葉はまた歩き始めた。
「刑事の使命感、というやつですか?」 
「五頭さん、今日は絡みますね」
秋葉に初めて名前を呼ばれ、五頭はうれしそうに笑う。
「何だ、俺の名前覚えててくれたんですね」 
芝居がかった人懐っこさで、五頭は言う。
「俺、何があってもこの事件だけは最後まで見届けたいと思ってるんです」
「それは記者としての使命感、ですか?」
五頭の言葉に、今度は秋葉が同じ台詞を返した。
「いえ。多分興味なんだと思います」
五頭が初めて真顔で呟いた。今までの何かをごまかすような口調が不意に消えたので、秋葉はまた足を止めて五頭を見た。
「相模の事件で、誰か……近しい人を亡くしたんですか」
秋葉の問いに、五頭は目を細めた。
「どうして?」
「そんな気がしただけです」
五頭はポケットを探り、煙草を取り出した。ゆっくりと火をつけて紫煙を吐き出す。
「単に、興味ですよ。記者は面白い事件を追う。追って記事にする。それだけです。後は……秋葉さんにも興味があります。いつか、あなたの心の暗闇に触れてみたいと思います。刑事という仕事のせいで恋人や妹を亡くしたあなたのね。これは個人的に」 
秋葉はその言葉を最後まで聞いて、笑った。
「意外と暇なんですね」
「まあ、ね」
五頭は行儀よく携帯灰皿に煙草を押し付けると、もう一度秋葉の目を見た。
「じゃあ、また。あ、それからその手。ちゃんと手当てしないと、跡が残っちゃいますよ」 
軽く手を振って五頭は道の反対側に渡り、歩き始めた。
それを見送って、秋葉は溜息をつく。相模の事件の後、様々な記者が自分に付きまとったが、五頭は中でも一番執念深かった。
ほとんどの人間は秋葉が何も語らない事に飽きて、離れていったのに。
秋葉は駅に着いて、目的地までのチケットを買う。
平日という事もあり、ラッシュの時間は避けたつもりだったが、駅の構内には人は多かった。
(ああ、夏休みか…)
私服の若者が多い。学生は夏休み期間なのだと思い当たるまでに、少々時間がかかった。特に時間を気にする訳でもないので、目の前に滑り込んできた電車に乗る。座席は空いていたが、秋葉はドアの横に立っていた。遠くの町並みはゆっくりと流れていく。
「秋葉さん…?」
不意に後ろから遠慮がちに名前を呼ばれた。秋葉は驚いて、その声がした方へ振り向く。そこにいたのは、中年の女性だった。
すぐには彼女が何者であるか、思い出せない。秋葉のその表情を見て、彼女は自分から名乗った。
「大原です。大原美雪の母です。去年の事件の時は……ありがとうございました」
その言葉で、ようやく秋葉の記憶の歯車が噛み合った。記憶を失う前も、その記憶を取り戻した後も、秋葉は事件の被害者やその遺族の顔を必ず覚える様にしていた。
自分自身の中で、事件を単なる仕事として流してしまわないように。彼女の娘は去年、相模に殺害された。彼女と会うのは事件直後以来、二度目になる。
「大原さん…」
明らかに昨年よりやつれた面差しが、少し悲しい。
髪にも白髪が増え、一気に年を取ってしまったような気がする。
「あの時、ニュースを見て…心配していました。もうお身体は?」
彼女の名前は大原寛子。秋葉は、そのフルネームを記憶の引き出しから取り出す事に成功した。
「はい…大丈夫です」
秋葉は複雑な思いで答えた。彼女達、3人の被害者は相模にナイフで首筋を切られ、殺害された。自分は重傷ではあったが、こうして生きている。
どういう形にしろ、一般人を救えなかった刑事が生き延びている。秋葉は、そのことに何処か後ろめたさを感じていた。
「仕事はお休みですか?ラフな格好をされているから」
「はい。大原さんは…?」
秋葉は言われて自分の着ている服に目をやった。茶色のポロシャツに色が少しあせたストレートのジーンズをはいている。とりあえず刑事には見えない。
「今日は病院へ。私はあれからずっと眠れなくて、不安定になってしまって…」
「……そうですか…」
ここにも遺されて苦しんでいる人間がいる。刑事という仕事が、無力なものだと感じ始めたのは、いつからだっただろう。
自分達が動く時には、もう事件は起こってしまっている。
「あの…明日の裁判、証言されるんですよね?」
寛子はすがるような目で秋葉を見上げた。
「はい。どこまで役にたてるかはわかりませんが」
「私も…今回は傍聴しようと思います」
寛子の表情は、心の内に何か重大な決意を秘めている様に見えた。
「裁判は遺族や被害者のためにあるものじゃないって、最近そう思うんです。傍聴しても、判決に関われるわけじゃないんですけど…。私にはもう、それしかあの子にしてやれる事がないんです」
そう言って、寛子は悲しげに笑った。
「じゃあ、また明日」
駅に着き、電車のドアが開く。寛子に一礼してホームに出ると、眩暈がしそうな熱気が漂っていた。
(もうそれしか、あの子にしてやれる事がないんです)
同じ様な気持ちを自分も味わった事が、確かにあった。
秋葉はふと、自分の伴侶になるはずだった遠山奈穂の事を思う。刑事を辞めて、他の仕事をしながら彼女と暮らしていたなら、自分にはどんな人生があったのだろう。かといって、刑事以外の仕事をしている自分は想像できない。
「今更、だな」
秋葉は声に出して呟いてみる。その呟きをさらって強い風が吹いた。
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