捜査本部(中編小説)

□氷月
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Scene:1

『邂逅』

こんなにも長くて
穏やかな孤独を知らない

語ることなく
話すことなく

その声はもう聴こえないのに

穏やかに支配されて



12月1日 午後10時―。
 


ああ、今日も会えなかった。病院の外に出て、携帯電話のボタンを押した彼女は、つながらない電話を切った。
(だって仕方ないじゃない、急に交代できなくなったんだもん。私だって会いたいよ?でも仕事だもん。これから無理して会ったって、明日昼から仕事だし。疲れとれないと困る。医療ミスとかしたら、大変じゃない)
彼女はしばし自分の正当さを心の中で呟いてみた。
「………もう看護婦なんて辞めちゃおうかな」
と、彼女―羽田麻衣子は、今度は口に出して呟いた。
田舎の役場で保健士の募集をしていると、父親が言っていた。
正直、麻衣子は迷っている。
転職をするなら、これが最後のチャンスかもしれない、という思いが頭をよぎる。
しかし、今どうするべきかを考えなければならないのは、彼の事だ。
「………面倒くさい」
麻衣子は溜息をひとつつくと、歩き出した。
今夜は満月だ。明るくてちょっと安心だな、と思う。
いつもの事とはいえ、夜の1人歩きは不安だった。
蒼い光が昼間とは別の色を映し出す。
雪が降ればいいのに。そうすればもっと綺麗なのに。ふと彼女はそう思った。
正月は郷里の秋田に帰れればいいのだが。
(少し疲れているのかな)
早く帰宅して、とにかく眠りたかった。麻衣子は足を速めた。
腕時計を見ると、快速電車の発車時刻が迫っていた。
「嘘!これ逃すと乗り換え面倒!」
麻衣子は走り出そうとして、その足を止めた。
細い路地。
(どうしよう)
日中は通る事もあるが、この路地を夜に通った事はない。
50メートル以上あるかも知れない。しかし、ここを通れば駅まですぐだ。
快速に間に合う。別に汚い路地でもないし、両側のビルにはまだ灯りがついている。
悪い噂も聞かないし、見たところ誰もいない。
麻衣子は決心した。走って抜けるつもりで、路地に足を踏み入れた。
中に入ると、自分の影が前方に長く長く伸びている。
段々と大通りの光が遠くなり、影が縮んでいく。
中ほどまで足早に歩いて、麻衣子は激しく後悔した。
(誰か、来た)
自分が目指している、向こうの通りへの出口。
黒い影。心臓がすくんだ。
(あ、でも違う。……女の人、だ)
スカートを履いたシルエットに、歩き方。
あれは女性だ。
ほっとして麻衣子は身体の緊張を解いた。
(何だ、やっぱり大丈夫じゃない)
小走りのまま、女に近づく。路地には人が2人並ぶくらいの幅はある。
女はコートを着ていなかった。
(寒くないのかな、この人。私みたいに北の生まれかな)
そう思いながら、すれ違った。
その瞬間。
(………え?)
左腕が熱くなった。それで麻衣子は足を止める。
そしてゆっくりと自分の左腕に視線を向けた。
服の袖が切れている。薄手のコートとセーターと、ババシャツが。
上腕の辺りで。
そしてどす黒い血がこぼれ出していた。
とっさに静脈血だと思った。
(何?これ、何で!?)
どうして自分の腕から血が流れているのか。
ようやく痛覚を認識し、身体中の力が抜けていく。
麻衣子は地面にへたり込んだ。血を止めなくては、と思い立ち、麻衣子はハンカチを傷に押し当てて傷口を圧迫する。
自分でも分からないうちに涙が溢れていた。
(病院、に…行かないと…)
麻衣子は顔を上げる。そこにはさっきすれ違った女がこちらを向いて立っていた。
蒼い月の光がビルの隙間から女の上に降っていた。
涙で曇った目では、その表情はよく分からない。
だが、女が笑っている事だけは分かった。
赤い唇の両端は、三日月の様に吊り上っている。
どうして彼女は自分を助けてくれないのか。
ぼんやりと女を見ていた麻衣子は、その手に握られている物に目を留めた。
銀色の、いつも職場で見慣れている、それ。
メスだ。
女はメスを一振りして血を落とし、布に包んで服の胸元に入れる。
この女が自分を切ったのか。
麻衣子は口を開こうとして、自分ががたがたと震えている事に気付いた。
(何で?どうしてこの人が私を……?)
凍りついたように動かせない目で、麻衣子は女が近づいてくるのを見た。


同日、午後10時20分―。

満月の夜だった。
何故それを覚えているのかというと。
その日は珍しく、蒼い蒼い月が、雲ひとつない真っ暗な空に浮かんでいるのがはっきりと見えていたのだ。
もちろんこの東京では、地上にその月明かりが届くことは無かったが。
「珍しいですね、こんなにきれいな月」
「……そうかな」
「何かあるかも知れませんよ?ほら、満月の日っていろいろ起こるじゃないですか。事故とか事件とか」
「……そういうこと言うなよ」
彼はその月を見上げ、立ち止まる。
言われてみれば、どこか禍々しい冷たい光だった。
2人は帰宅するために、これから地下鉄に乗るのだ。
本当は夕方までの勤務だったのだが、同僚が書類をまとめるのに付き合っていたらこんな時間になってしまった。
確かに、何かが起こるのかもしれない。
言われて納得するだけの雰囲気ではあった。
そう思う彼の名を、秋葉柊二という。
28歳の警視庁大塚警察署刑事課の刑事だ。階級は巡査部長。
隣を歩くのは、梶原秀希。
同じく大塚署刑事課に所属する、26歳。
まだまだ駆け出しの刑事だったが、時折彼は、月を愛でるようなロマンチストぶりを発揮して、秋葉を驚かせる。
秋葉は月から視線を地上に戻した。人通りはなかったが、軽く左肩に女性がぶつかってしまう。
「すみません」
「……いいえ」
視線を交わすことも無く、彼女は秋葉の声に答え、そのままのスピードで歩いていく。
秋葉も駅へと歩き始めようとして、その足を止めた。
「秋葉さん?」
どうかしたのか、と梶原が視線で問う。
秋葉はそれに答えず、もう一度遠ざかる女性の姿を目で追った。
「どうしたんですか?あの人、気になるタイプですか?」
梶原の問いに、秋葉はふっと笑った。
「いや、そういうんじゃない」
何かが、癇に障った。言葉では説明が難しい。
「あ、もしかして今当たったの、左肩じゃなかったですか。傷が痛みました?」
春に負った傷が。確かに少し痛んだのだが。
「いや……いい。なんでもない」
もう一度秋葉は振り返ったが、そこには既にあの女性はいなかった。
最近の日本人には珍しい、肩で切りそろえられた黒髪。
薄っすらと笑んだ唇には血の色を連想させる様なルージュが引かれていた。
それだけを脳裏に残して。
何がこんなに自分の神経に引っかかってしまったのか。
秋葉はそれ以上の思案を諦めた。
「どうしたんですか、秋葉さん。顔色悪いですよ」
「……ちょっと傷に響いた」
 実際、疼くような痛みが左肩の傷から走っていた。
大丈夫だというように笑った所で、秋葉のコートのポケットの中で、携帯電話が鳴り始める。
2つ折の携帯を開くと、相手は先輩刑事の陣野だった。
「秋葉です。……はい。いえ、近くにいます。梶原もここにいますが」
秋葉の緊張した声と。『陣野』という名前が出たことで、何か良くない、勤務が明けたばかりの自分達を呼び戻さなければならないほどの事件が起こった事を、梶原は悟った。
「分かりました。このまま行きます」
通話を切り、秋葉は足早に歩き始める。
梶原もそれを追った。
「何があったんですか」
「通り魔事件」
振り返らず、秋葉は言う。
彼は先刻すれ違った女性の事をもう一度思い出していた。




「悪かったな。今日は帰れないぞ」
秋葉と梶原が事件現場に到着した時には、既に大勢の刑事や鑑識の人間がいた。
ビルとビルの間の路地だ。
街灯もこの裏通りには届かない。
陣野は秋葉と梶原の姿を見ると、軽く手を上げた。
「お疲れ様です。状況は?」
覆面車の中に荷物を放り込み、白い手袋をして、秋葉と梶原は立ち入り禁止のテープの内側に入る。
アスファルトの上には、黒く血液の跡があった。
「被害者は帰宅途中の23歳の看護師だ。腕をさっくり切られたらしい。出血量は多かったが、命には別状はない。病院に運んで治療中だ。立花がそっちに向かってる」
「腕を?凶器は…?」
「……それがな」
秋葉の問いに、陣野は顔をしかめた。
「医療用の、メスらしい」
「そんな特殊なもので?」
「ああ、被害者がそう言ったらしい。メスで切られたってな。まあ、看護師だから、尚更よく分かるんだろうよ」
会話をしながら、秋葉は路面を見つめている。
残っているはずのない血のにおいが、自分を取り巻いているようだった。
「犯人の顔は見てるんですか?」
「女だ。面識はないそうだ」
陣野の答えに、秋葉と梶原は顔を見合わせた。
ほぼ同時にあの女性を思い出していた。
「どうかしたのか」
「いえ……」
「鑑識が終わったら、一度署に引き上げる。お前ら、先に戻って過去の通り魔事件のファイルを当たっていてくれ。あの車、使っていいから」
陣野から放られた鍵を受け取り、秋葉と梶原は、路地の向こうに停めてある覆面車へと走る。
秋葉は車に乗り込む前に、もう一度月を見上げる。
相変わらず蒼い月はそこにいて、秋葉を見ていた。
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