自動車警ら隊(リクエスト)

□名前を呼んで
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病室にたどり着き、ドアを開けると。
秋葉の母親がいた。
隣に立つ秋葉が、解きかけていた心を再び凍りつかせる気配がして。
それを敏感に感じ取るのも母親の成せる業なのだろう。
「柊二」
安心させるように柔らかく秋葉の名を呼ぶ、声。
それを聞いて、俺は素直に羨ましいと思った。
随分長い間、俺は母親に名前を呼ばれていない。
いつからだったか、もう思い出せない程だ。
いや、それがいつからか、はっきりと覚えているのだが。
思い出さないようにしている。
母親の声も。
思い出さないようにしている。
「じゃあ……今日はこれで」
俺は秋葉にそう言い、彼の母親に一礼して逃げるようにその場を離れた。
さっきまで秋葉が空気に馴染まない異質なものだったのに、今度は俺がその異質なものになってしまった気がした。
屋上で。
秋葉が俺の経歴を『読み上げた』時。
俺は意図的に秋葉の言葉を遮った。
両親と、妹…その後に続いたであろう言葉を。
階段を駆け下りながら、俺は心に絡み付いてくる薄ら寒い感覚を振り払おうとした。



出来ることならば、全てを白紙に戻して。
出来ることならば、全てを手放して空っぽにして。
自分が生まれた事まで消してしまえたら。
そう心の底から願ったことがある。
だが、あの時の秋葉を思えば、記憶を失うという事がどれほどのダメージを受ける事なのか、よく理解できた。
失うにしても、抱えていくとしても。
どちらにしろ、苦痛な事には変わりはない。
秋葉は失い、取り戻す事で二重の苦痛を味わった。
俺は、きっと、秋葉ほど強くはなれない。



「ヤ〜クっ」
物思いに沈んでいた俺を、影平が呼んだ。
深夜と言ってもいい時間だ。
随分長い間、俺はぼんやりとしていたらしい。
口調とは逆に、僅かに気遣わしげな表情で、影平は俺を見ている。
「何?」
年が明け、世間が平常どおりに動き始めた頃。
それまで過密スケジュールだったこの職場は、遅い正月休みを課員が交代で取り始める。
結局はまだしばらく、おかしな勤務形態が続くわけだ。
元々俺と影平は班が違う。
一緒にこんな時間にここにいる事自体、珍しい事なのだ。
「何か考え事してた?」
気付けば他の同僚は仮眠やその他で出払っていて。
刑事課には影平と俺しか残っていない。
普段は気を使うだとか、遠慮するだとか、そんなものには縁のない人間に見える影平だが。
実はかなり相手の空気を読むことに長けていると俺は彼を評価している。
彼が今現在組んでいる秋葉は相手の思考を読みすぎて、逆に身構えるタイプだ。
秋葉と影平を足して2で割ったら、仕事も人間性も何もかもがちょうどいいのかな。
などと思ってみたりもする。
だが、マジメな影平を想像してみると怖いので止めることにした。
それに、何より影平に足されて割られる秋葉がかわいそうだ。
あの病的に潔癖な彼は、こんないい加減な奴と混ぜられるなど耐えられないに違いない。
しかし。
影平化した秋葉を想像してみると意外に楽しくて、俺は思わず笑ってしまう。
「何笑ってやがる」
にんまりと口の端を笑みの形に結んだままの俺を、影平は居心地の悪そうな顔で見た。
「何でもない」
俺は長時間のデスクワークで凝り固まった肩を解すために、立ち上がって大きく伸びをする。
ついでに出た欠伸は噛み殺した。
「昔の事を思い出してた」
首を回せば、ぱきっと骨が音を立てる。
「………昔?」
影平は手にしたペンを置き、くるりと椅子と一緒に回った。
「秋葉の事を、少し。あと……自分の事」
ち、ち、ち、と壁にかかっている電波時計の秒針が動く音が聞こえる程、部屋の中は静かだ。
「この前。秋葉に…言っちまった。俺が人を殺したいと思った事があるって」
「………ふーん」
影平は、かりかりと耳を掻きながら気のない返事を寄越した。
当の秋葉は今朝勤務が明け、明日がようやくの非番だ。
今日はゆっくり眠れているといい。
そう思いながら、俺はコーヒーを淹れる為に、ポットとカップが置かれている棚へと向かった。
「お前も何か飲む?」
「ん〜……じゃあ、俺もコーヒー」
インスタントコーヒーをカップに入れ、湯を注ぐ。
影平のカップにだけ、砂糖とミルクを追加してかき混ぜ、俺はそれを影平に手渡した。
「いただきます」
行儀よくそう言い、影平は一口コーヒーを飲んだ。
「…………で。何で言っちゃったの」
先程話していた事など、忘れるくらいの時間が経った後で、影平がぽつりと呟いた。
もう互いに背中合わせで机の上の書類に向かっている。
この体勢ならば、誰かが入ってきたとしても口を閉じればいいだけの事だ。
「……分からないから困ってる」
きっかけは、影平が俺と秋葉が似ていると言ったからだろう、とは思う。
「あいつ、何も言わなかったでしょ」
「………うん」
そんな結論だけをいきなり突きつけられて。
疑われ、極限まで追い詰められて高熱を発してダウンしていた秋葉が、それに対して何かを言えたとも到底思えない。
「あいつなら、お前が全部白状しても、多分何も言わないよ」
今度は行儀悪く大きな音を立ててコーヒーを啜り、影平は俺に背中を向けたままで言う。
「俺、最近やっぱ辛いんだわ。秋葉見てると。昔のヤクの事思い出して」
影平は一呼吸置くために、ことん、とカップを机に置いた。
「ヤクなら、俺とも陣さんとも梶原とも違う方向から秋葉にアプローチできるんじゃないかなって思ったりもして」
影平は落ち着き無く耳を掻く。
それは本音を吐露する時の彼の癖だ。
「俺はあまりに秋葉とは接点が無さ過ぎる。陣さんみたく、あいつが落ちる時に引きもどしてやれる訳でもない。梶原みたいにあいつのストレスを吸収してやる事もできねえ」
「いやいや、秋葉にとってはお前の存在自体がストレスでしょ」
ふと混ぜ返したくなって、俺は笑い含みに言い返した。
「そりゃ間違いないな」
影平が肩を震わせておかしそうに笑う。
「秋葉ってお前の前では必死でガード張ってるけど、気は許してるよ」
「……そうかな?」
影平はぶつぶつと呟きながら首を傾げた。
「それがお前の才能、だろ。いい加減で面倒くさがりの癖に実は面倒見が良くて、お節介で。弱ってる奴を見捨てられないんだろ。俺の時みたいに」
指折り数えて、俺は教えてやる。
「…むむ……何か余計なもんが入ってる気がする」
影平は俺の方へ身体を向け、顔をしかめた。
別に背中に目が付いているわけではないが、きっとそんな顔をしているに違いない。
廊下をこちらへ歩いてくる足音が聞こえた。
影平との話はそれきりになった。
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