「日誌撰集」
□生きることの意味第T集
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人が「生きることの意味」や「生きることの理由」を問うのは,自分の人生に対する否定的な評価を抱いたときです。
そのとき,「生きることの意味」や「生きることの理由」を問う動機付けが生まれます。
殊に,人生の否定的な評価が,技術的にに克服できないと思われるとき、その動機付けが強まるといえます。
人生に対して肯定的な評価をしているときには,このような問いは発せられないでしょう。
たとえば,生活に苦労していないとか,おいしいものを食べているとか,適当に遊べるとか,友達から好かれているとか,愛してくれている人がいるとかそういう極めて俗な「人生の価値」が満たされているとき。
以上のような俗な意味での人生の肯定的な評価ができているときには,生きることの理由を問うその動機付けが生まれないでしょう。
また,何らかの方法でその人生の肯定的な評価を獲得することができるときにも生まれないでしょう。
問題は,それがどうやら無理らしいと思ったときです。
人生を肯定的に評価しているのなら,自分の人生に満足しているのなら,そのような考えは思い浮かばないでしょう。
生きる理由は,「単に現状が自分の欲望に合致している」というだけで十分に充足するのです。
また,自分の人生に対し,障害があるにしても,それを克服すべき道筋が明らかであるときにも,迷いは生じないでしょう。
困難の克服は,自分の人生を世俗的な意味で楽しく豊かにするものだからです。
したがって,自分の人生に対し否定的な評価をするとき,しかも,その人生の困難を克服する道筋すら見えないとき,私たちは,生き難い生を,なぜ生きねばならないのかと深刻に悩むことになるのです。
そのとき,人は「人生の意味」や「理由」を初めて問い直すようになります。