「日誌撰集」

□哲学の価値
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4 哲学書に対する接し方と哲学研究の位置づけ

 私は,これまで述べてきたような問題もあることから,哲学書を読むことに虚無感を感じるときがあります。
 翻訳物を読まなければ良いのですが,やはり,日本の研究者と欧米の研究者では,実力の違いが明白にあると思います。
 私は,翻訳で読むものとしてはポパーが好きです(殊に,その見解を批判的に解説した論考も多く,そこに展開される考え方を相対化し易いことも好ましく思っています。)。推測と反駁などは本当に面白いです。ポパー独自の考え方も魅力的ですが,とにかく知識的な「ネタ」も多く,本当に向こうの哲学者というものは,あらゆる知識を総合化しようとしているのだなと感じられ,圧倒されます。対して,日本の研究者の書いている解説書は大変面白いのです(本編の引用から明らかな通り大変お世話になっています)が,やはり,欧米の研究者の後追いとしか思えないものが多い。それならば,特定の欧米の著作の翻訳か,解説書を読もうということになります。哲学というものは,内的必然がなければやる必要がないもので,世界を見て哲学をする必要はありません。しかし,欧米べったりはいかがなものかという気もするのです。昔は,ヘーゲル,カント,サルトルに盲従し,しばらく前は意味不明な(ポスト)構造主義に盲従し,今は,ロールズやハーバーマスに盲従するという体を感じます。欧米意識するなら,欧米の哲学界をリードするような論考を発表して欲しいと思います。
 他方で,独自性を強調する日本の研究者の人もいただけない。なんか日本の独自性を強調しすぎて無理な論理を展開しているような気がします。西田幾多郎のばりの西欧近代の克服などというものを目標とする自体で間違っていると思います。もしかしたら克服できないというのが正しい答かもしれないのに,最初からバイアスをかけるのはいかがなものかという気がするのです。
 以上のような事情で,私は,哲学書には知識を期待していません。「正しい」知識としては。トリビアルな知識を除いては,対話や自分の考える上でのアイディアを得る一つの手段と捉えています。通常,書物の価値というものは,娯楽を除いては,そこに書いてある知識を摂取することにあります。哲学書は,そのような知識を提供するものではありません。
 このような点にも,哲学の(普通考えられるような意味での)価値の存在に疑問があるのです。
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