「日誌撰集」

□哲学の価値
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第4 「では,なぜ,哲学するのか?」

 1 哲学不幸観

 これまで、哲学の価値について,消極的な見方を呈示してきました。
 そこで,哲学をするということをどのように考えていくのでしょうか。

 このような見方があります。
 哲学をする,哲学をしてしまうということは,ある種の不幸であるという見方です。
 孫引きで恐縮ですが,永井均はアンスコムを引用しつつ次のように言います。

“ウィトゲンシュタインが,哲学をしばしば潜水にたとえた(略)人間の体は,自然にしていると水面に浮かび上がる傾向がある。哲学的に思考するためには,その自然の傾向に逆らって水中に潜ろうと努力しなければならない(略)。
 水中に沈みがちな人にとっての哲学とは,実は,水面にはいあがるための唯一の方法なのだ。”(永井均「子供のための哲学」194頁〜195頁)。
 
 哲学を「してしまう」人にとっては,それはある種の不幸だといえるでしょう。
 というのは,哲学というものは,人が非常に基本的だと思っていることを批判的に検討するものですが,非常に基本的なことというものは,哲学をしようとする人それ自身も,基本的なことにしているはずであり,その営みは自己破壊的な側面を有し,往々にして自己矛盾をきたすか,その前提を保守的に容認せざるをえないように思えるからです。少なくとも私にとってはそうでした。
 考えた末に,考えることがむなしくなり,自己の予断と偏見を受け入れるしかない領域に至るように思います。

 (確かローティだったと思いますが)「ここにこの右手がある」からはじめようといったプラグマティズム的な割り切りや,分析哲学的な形而上学批判というものはつまりそういうものだと思うのです。

 なお、永井均自身は、哲学について、否定的に述べるだけではありません。

“私はウィトゲンシュタインの哲学の妙技を紹介することを通じて,哲学がどんなに魅力的なものか,一度も「哲学」をしたことがない人に,何とか伝えたいと思った。”(「ウィトゲンシュタイン入門」7頁〜8頁)

 先の指摘とこのような肯定をどう考えるのかも面白いですが、先の記述を単なる教説と捉えることはできないことには留意する必要があります。
 その意味で、先の引用は、あくまでも参考というべきものと思います。
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