「日誌撰集」

□哲学の価値
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 少し恥ずかしくなりますが,ソクラテスは,無知の知と言いました。自分は,知らないことがあるということをきちんと知っている点で優れていると言った話は有名ですね。
 余り聞く名前ではないかと思いますが,ドイツの哲学者のリュディガー・ブプナーも,「哲学の価値は,人間の能力の有限性を知らしめるところにある」と言います(リュディガー・ブプナー「現代哲学の戦略」B頁)。表現の仕方は違いますが,言っていることの内容はソクラテスと同じだなと思っています。
 私は,このような物の言い方を好ましいものと思っていますし,確かにそうだなと思います。そして,現代の不幸のいくつかは,この限界を良く理解していないことにあるのではないか,と(床屋談義の次元ですが)思っています。
 とはいえ,果たしてこれを知っているということがどれほどすごいことなのでしょうか。私たちの能力には余りに限界があるということは,誰でも知っていることではないのか,という気がします。これが哲学をしなければ分からないことなのでしょうか。
 このようなソクラテスのような見方を批判するのが,ウィトゲンシュタインです。飯田隆は,ウィトゲンシュタインの立場をこのように表現しています。

“哲学にはまりこんだ人々はみな,知っているのに知らないと思っているのだ,そして,私の役目は,本当は知っているのだということをそうした人々に思い出させてやることだ。”(飯田隆「ウィトゲンシュタイン」316頁)

 私たちは,実に多くのことを疑うことができます。自分たちの考えているあらゆることについて,もしかしたら錯覚かもしれないとか,あるいは,デカルトのように悪魔の力によって幻覚を見せられているのかもしれない。疑いはいくらでも広がっています。
 しかし,他方で,私たちは,実に多くのことを知っていると思う。この世界が存在していて,目の前にパソコンがあり,そのキーを打ち込むと諸々の物理学上の原理に基づいて,画面に文字が表示されていく。過去というものがあって,私は,父母から生まれ,幼稚園を出て,小学校を出て,中学校を出て・・・,自分が生まれる前から日本という国が存在していて,日本という国のほかにもいろいろな国があって,そういった国々は地球という球体の上にあって,地球の周りには宇宙が広がっていて・・・。
 あらゆることが疑えることのはずなのに,私たちは,膨大な知識をまったく当然のことと思っているのは,きわめて不可解な謎です。
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