「日誌撰集」

□哲学の価値
18ページ/27ページ

 4 普通の人にとっての哲学の価値

 哲学をしてしまうこと――そのような心理状態になってしまうこと――が一種の不幸で,哲学をすることがそれを解消する手段であるのならば,「普通の人」にとっては哲学というのは,どのような価値があるのでしょうか。
 
 私は,好事家的な価値しかないと思います。それは知識欲を満たすための娯楽にすぎません。
 普通の人にとっては,哲学というものは,余計なことです。やらないですむのであれば,やらなくても良いものです。何よりも、「哲学すること」は、「哲学してしまうこと」の治療なのですから、「哲学してしまうこと」のない人にとっては、病気でもないのに手術をしてしまうようなことであって、避けるべきことでしょう。
  
 哲学者自身も,何らかの精神的安定を得ると,すなわち,普通の人になると,哲学をしなくなるものと思います。たとえば,オーバードクターの非常に不安定な地位を抜け出し,大学の選任教員になり,著作が多少認められて,定収入の保証と自尊心の充足を得たときには,哲学をする時間的な余裕,精神的な余裕はできるのでしょうが,哲学をする動機付けは失われてしまうのではないかと思います。

 と,断定的に書いたものの,私自身は,職業哲学者ではありませんから,はっきりしたことは分かりません。ただ,いろいろな著作から垣間見える職業哲学者の方の言動から推認しているにすぎません。

“かつてのような哲学的な問題を生きてはいない。ふつうの人と同じように,政治のこと,お天気のこと,家族のこと,自分の収入や評判のこと,それに人類の未来のこと,などなど,そんなことを気にして生きている。いまでは,もともとの哲学的な問題をいきいきと感じることに,努力を必要とするようになった。(略)ぼくは職業哲学者という奇妙な職業についた。さらにぼくは,子どものころの哲学的な疑問に答えることに,すでにある程度成功した。そのうえ,ぼくの疑問とそれに対する答は,少数とはいえ,理解者や批判者を得ることができた。こうしたすべては,ぼくにとって救いになった。(略)だがそのことは同時に,自分のなかで哲学しつづける深い内的必然性をなくした,ということでもある。”
(永井均「子どものための哲学」17頁)“

“私は,こうして二十歳前後の自分を思い起こして,若気の至りだとはちっとも思わない。むしろ,当時の自分に対して恥じる気持ちさえあります。あのころのほうがよっぽど哲学的であった,今おまえは一体何をしているのだ。ひょっとするともう哲学病は癒ってしまったのじゃないか。それなのに,病気の振りをしているだけではないのか……。”
(中島義道「哲学の教科書」265頁)

 いかがでしょうか。お二方とも,もちろん,私などよりも,よく考えていらっしゃって,哲学の知識もあるところで僭越なのですが,相応の自尊心を満たされるなどして,落ち着いたのかなあと思います。
 結局,哲学を通して普通の人になったのかなと思います。
 たぶん,お二方とも,哲学的な疑問について,明瞭で欠陥の全くない解答を得たわけではない。それは,お二方の文献の書きようからも明らかなことです。ただ,内的必然が乏しくなってきたということなのでしょう。どこかで,まあこれでいいかな,という極く普通の人のやる割り切りをしたのでしょう。
次へ
前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ