「日誌撰集」

□哲学の価値
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第1 緒言


“哲学はそもそものはじめから,他のどの学問よりもたくさん公約をならべたててきたが,実際なしとげた成果は,他のどの学問よりもわずかであった。”
――ラッセル(「外部世界はいかにして知られうるか」『世界の名著58』85頁)


 サイトを立ち上げてから,ほかの哲学がらみのサイトなども見るようになりました。
 そして,とある掲示板のスレッドを見たところ,「哲学なんて無価値なんじゃない。価値のある説明をしろ。」というような書き込みがありました。

 「価値」という部分が気になりました。

 「価値」は専ら主観的なものであるはずで,あるといえばある,ないといえばないという程度のものです。
 ですから,哲学に価値があると思う人はやればいいし,ないと思う人はやらない。わざわざ問題提起するのがおかしい。

(ちなみに,「価値が専ら主観的なものであるはず」という点が正しく重要な問題だったりもするのですが,ここではさて置きます。)

 私は,「本当の意味で」考え「なければならない」ようなことなどは何もない,と思います。
もっと根底的にいうと,「本当の意味で」「しなければならないこと」がないのです。
私たちに「自由がある」というのであれば,このような意味で自由があるのです(そして,このような意味でのあり方は同時に不幸なのでもありますが,それは別の機会に委ねます。)。

 世の中で,いろいろな人が声高に叫んでいる「考えなければならないこと」を徹底的に考えようとしたらいくら時間があっても足りません。
 
 ぱっと思いつくだけでも,いじめ,年金,中国の地震災害,アフリカの内戦,ワーキングプア,救急担当医師・小児科医・産婦人科医等の減少,原油価格高騰,輸入食料品価格の高騰,後期高齢者医療制度,教員のわいせつ行為等々。

 私たちはいろいろなことを考えないで済ますことによって,まともな日常生活が営めるのです。
 たとえば,社会的インフラは大切ですが,平生そのことを気にやむということはありません。

 以前,自宅の下水が詰まり,大変困ったコトがありました。
平生下水道工事などというと,年末の役所の予算消化のためのものなどというひねた感覚しかなかったので,このような社会インフラの大切さを改めて感じました。

 しかし,そうでもない限り,下水管の全体的な整備とか汚水処理施設をどうしようとか,社会生活に大きな影響を及ぼすことなのに,普段は気にしません。
(でも,あなたの家の水洗トイレがまったく使えなくなったらどうします?)

 哲学(が問題にする領域)も,そんな考えなくてもどうでもよい事柄の1つです。
 
 しかも,特に考える必要性が乏しい領域です。
 というのは,哲学は物事の基礎的,基本的なことを考察するからです。
 
 基礎的,基本的なことはあらゆる知識の大本です。
 哲学は,そのようなあらゆる知識の妥当性を考えたりします。
 ですから,その点であらゆる学問に先だって第一に考えなければならないもので,かつ,哲学の議論の結論如何によってあらゆる学問が左右されてしまうという意味で,あらゆる学問の上に立つ最上位の学問のようにも思います。
 
 確かに,学問の体系的を作り上げた場合には,そうなるのかなあという気がします。
しかし,基礎的,基本的な事柄というのは,そもそも哲学の考える上でも基礎付けになるようなものです。
 ですから,それを変革することなどはほとんど出来ません。
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