「日誌撰集」
□哲学の価値
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哲学は,真理を追い求めます。
そのことに,普通の人は,恥ずかしさを感じるでしょう。私も,こんなサイト上だからこそ,話せるわけで,日常生活では・・たとえば,職場の同僚との話題には取り上げません。言えば,ドン引きされるに決まっています。
また,その真理の探究には限界があり,そこには大変な困難があることは明らかです。
さしあたり,「用語集」の真理の欄を参照してください。
だから,普通の感覚だと,「そんなもの追い求めてどうするんだ。」という話になり,ごく普通の人はそんなことを考えません。
さしあたり,自分の偏見を信頼してやっていくしかないのです。
ところが,このような真理を追い求めるという姿勢を普通の人が持ってしまうという場合が少なくありません。
ぱっと思いつくところですが,教育関係で「本当の学力」ということがよく言われます。
しかし,「本当」って何でしょうか。「普通の人」ならそんなことは気にしないでしょうし,また,哲学を突き詰めていれば、そのような物の言い方をすることが非常に困難になることは分かるはずです。
ところが,世の中には,この種の物の言い方があふれています。
このことは,非常に滑稽な(我ながら時代がかってしまった;)ことではないでしょうか
普通の人が哲学をしてしまうような心理状態になること……それは,やはり,病なのです。
それを解消するにはどうするのか?
一つには,前回(といっても,もう6月9日のことになりますが)にも取り上げた自然治癒があります。
多くの人は,人生がどうだとか何だとか考えてみても,すぐ日常生活の忙しさの中にまぎれてしまい,悩みは自然になくなってしまいます。
ここで,「人生上の問題」が哲学的な問題なのか,という議論もあるのでしょうが,普通の人が考える哲学上の問題というものは,多くの場合,「人生とはなんぞや」の類の問題であることを失念してはいけないと思います。
「人生論の類が哲学上の問題ではない」という考え方に至るには,やはり,哲学的な考察が必要になってくるのです。
ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」で,その解消が問題となる「哲学上の問題」の一つが「人生上の問題」であることにも留意すべきでしょう。
では,このような自然治癒が図れない場合はどうすべきか?
それは,もう哲学をするしかないのです。
哲学をするような心境になるという不幸な状態から逃れるには,スポーツや仕事などをすることによって,その問題に関心が行かなくなるようにするという自然治癒的な対処が有効ですが,それでは対処できない重症者の人には,やはり,哲学それ自体をするという荒療治をするしかないのです。
世の中にあふれている哲学っぽそうな議論には,徹底的に考えてみるとおかしい点が多々あります。
この種の「哲学っぽそうな議論」は,非常に耳障りがよく,博愛主義的,理想主義的なものですから,世の中で大手を振ってまかり通っています(我ながら時代がかった表現だ)。
そして,このような「哲学っぽそうな議論」が,広く流通することにより,却っていろいろな歪みが生じているのではないか,というのが私の考え方の一つです。
さしあたり,以上で管理者が述べたい,そして,皆さんからご意見を頂戴したい事柄はほぼ終わりました。
補論として,「哲学っぽそうな議論」の題材として「リベラリズム」に係わる問題を少し取り上げます。