「日誌撰集」
□哲学の価値
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2 社会保障の実現方法と欺瞞
リベラリズムの考え方によれば,国家によって,社会的弱者を救済していくことが求められます。
それ自体は,望ましい理想です。
問題は,本当にそれが国家によってなされるべきことなのか,ということです。
国家,国というものは,具体的にあるものではありません。
薬害エイズや原爆症について,国に賠償請求をする訴訟をして,国に賠償金を払わせるという内容の判決がでたという話を聞いたことがあるかと思います。
さて,「国が払う」ということですが,どういうことなのでしょうか。
「国さん」,「国家君」という具体的個人が払うわけではありません。
そんな人はいませんからね。
国家,国というものは,具体的にあるものではない,というのはそういう意味です。
国家,国というものは,具体的に存在しているものではなく,その意味で,抽象的,観念的な存在です。
では,誰がどういうふうに払うのかというと,平たく言えば,税金で払うわけです。
税金で払うということは,つまるところ,納税者である私たち1人1人が払うということです。
年金や生活保護も同じです。
それを社会保険料と言おうが,税金と言おうが,同じことです。
つまるところ,私たち1人1人が払うわけです。
さて,この話だけでは変な話になります。
変な話というのは,年金や生活保護は私たちが受けるものですが,その出元は私たちなわけです。
そうすると,自分のお金を自分で使っているのに過ぎないことになります。
年金にしろ,生活保護にしろ,持っている人が持っていない人にお金をあげるものに過ぎません。
それを制度で行っているだけなのです。
問題は,それを行うに当たって国家を介在させる必要性がどこにあるのか,ということです。
国家を介在させると言いましたが,ここいう「国家」とは具体的には何なのでしょうか。
「国家」は抽象的,観念的な存在ですから,それが行うとされることを考えるに当たっては,具体的にどのような過程でそれがなされるかを考えてみる必要があります。
ここでいう「国家」というのは,つまるところ,「公務員集団」ということになります。
「官僚組織」と言ってもよいですが,「官僚」というとどうしても,いわゆる「キャリア」のエリート公務員というイメージがつきまといます。
実際には,生活保護や,年金の受給手続に係わる公務員は,普通の市町村等の地方自治体の公務員の人たちなのですから,「公務員集団」と言った方が,イメージとして当たりやすいのかなと思います。
そこで,本稿では,「公務員集団」という言葉を使いたいと思います。
さて,年金制度や生活保護制度というものは,「公務員集団」を介在させて,お金がある人からお金がない人へ,お金を移動させる制度ということになります。
公務員集団が,お金を集めて,お金が必要な人にお金を渡すわけです。
お金の移動をするにあたって,公務員の人たちが働くということになるわけですが,この人達もただ働きをするわけではありません。
当然,お給料を支払う必要があります。
では,そのお給料はどこから支払われるのか。
抽象的には,国家公務員なら国家,すなわち,日本国,地方公務員なら各地方自治体ということになりますが,実際には,先の述べたとおり,税金から払っていくのですから,結局,私たちが支払うわけです。
そこで,また疑問が出てくるわけです。
お金がある人からお金がない人へお金を移転させる場合と公務員集団を介在させる場合とでは,どちらがよいのでしょうか。
色々な見方ができるのでしょうが,1つ確実に言えることは,公務員集団を介在させる方が全体としてのコストは高く付くということです。
なぜなら,先に述べたとおり,公務員集団を介在させる場合には,所属する公務員に給料を支払わなくてはならず,その分余計なコストが係るのです。