「日誌撰集」

□哲学の価値
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 4 信念は哲学ではない。

 よく「哲学なんて言葉の遊びだ。」,「哲学なんて無価値だ。」ということが広く言われます。
にもかかわらず,「哲学」に関連することとして「理想」,「博愛主義」が,特に政治の現場で語られます。

哲学とは,あらゆる事象について,徹底的に冷静に考えようとする態度です。
耳障りのよい「理想」や「博愛主義」が本当に正しいのか,本当に誰もが目指さなければならないのでしょうか。
考えた結果として耳障りのよい「理想」や「博愛主義」は間違いという結論になるかも知れません。
 ですから,哲学から「理想」や「博愛主義」が当然導き出されるわけではないはずです。
 最初から,耳障りのよい「理想」や「博愛主義」を目指すというなら,わざわざ考える必要はありません。
 哲学は,結果が分かっている出来レースをすることではありません。
 そのような人にとって必要なことは,考えることではなく,それを実現すべく,日常生活において行動することです。
 ただ,行動というのは大変なので,往々にして,耳障りのよい「理想」や「博愛主義」を擁護する言葉を述べるだけで終わる人がほとんどなのでしょうが。

 また,哲学が耳障りのよい「理想」や「博愛主義」と「哲学」とが結合していると思い込んでいる人が多いことも事実です。
 哲学とも関連の深い倫理学の話になりますが,倫理学者の笹澤豊が,このような話をしています。

“「飢餓と飽食」をテーマとしたシンポジウムがあり,そのパネリストを仰せつかったことがあった。(略)ここで申し上げたいのは,素朴な利己主義はそのままでは通用しないということです。(略)「自分の困窮を回避することだけが私の関心事だ。自分が困らなければそれでよい」という考え方を捨てなければ,私たちは自分が困窮に陥ったとき,だれからも助けてもらえないことになる。(略)途上国への支援を積極的に是認する,明快で強力な論理を提示したつもりだった。だが,オーディエンスの反応は,予想外のものだった。(略))「肝腎の倫理の話が聞けなかった」という不満である。(略)どうやら「倫理学者」である私に期待されていたのは,仏教の慈悲心を援用して熱っぽく人道主義を語ること,あるいは,イエス・キリストのように,高邁な隣人愛の教えをたれることだったようなのだ。”
(笹沢豊「自分の頭で考える倫理」51頁〜53頁)

 多分,一般の観客の方は,もう何が倫理的に正しいのか自分の中では決まっていたのでしょう。そして,「倫理学」とは,「道徳的な態度を擁護,推進するもの」であるという見方をしていたのではないか,と思います。
 そして,そのような人にはそもそも倫理学などというものはいりません。
 何がなすべきなのかを探求するのが倫理学の役割なのですから,こうすべきだと決まっているような人には,もう答がある以上,倫理学はいらないのです。
 
 このような哲学に対する見方をどう言うべきかは悩んだのですが,「哲学」をある種の「信念をもつこと」だと捉える考え方と言えると思います。
 「経営哲学」なんかは,そうですね。
 また,書店の哲学のコーナーになぜか「宗教」やら「死後の世界」やら「スピリチュアル」やら,どう考えても,批判的な考慮と無関係な本が並べられていることが少なくありませんが,これも,哲学=信念と捉えているからなのでしょう。
 しかし,哲学にとって重要なことは信念を持つことではありません。
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