「日誌撰集」
□哲学の価値
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第6 結 語
博愛主義的な信念を語ることを哲学的なことと捉える傾向は根強い。
また,実際に哲学者や思想家も,耳障りのよい理想を語ることは少なくありません。
マルクスやその考え方を信奉する人たちは,革命の後に共産主義に基づくユートピア的な社会がくるものとして,これを推進するための言葉を述べてきました。
サルトルは,哲学者としての評価が分かれますけれども,「被投性」などという概念を使って,マルクス主義的な理想の実現に寄与することを正当化しようとしました。
ロールズやハーバーマスは,リベラリズムの思想に関する最近のビッグネームです。
そして,ロールズは,「無知のベール」の概念を使って,国家が社会福祉を行うこと,財や能力がある人がない人のために寄与すべきであることを正当化し,ハーバーマスは,近代的な民主制を正当化しようとしています。
ただ,このような正当化は本当のところでは上手くいきそうにありませんし,これまで若干述べた欺瞞的な態度を正当化してしまうおそれがあります。
哲学の定義づけや捉え方は多様ですが,多様であるというだけであれば,それは何を語らないのと同じことでしょう。
誰もが好きに考えてよいのですから。
哲学をしてしまうことは病であって,実際に哲学をすることは治療であるという比喩を呈示しました。
そうすると,治療としての哲学をすることというのは,どういうことなのでしょうか。
補論敵に美辞麗句的に語られる「リベラリズム」や社会福祉等についてしばらく考えてみました。
私には,「真実」や「道徳」などといったものも批判的に考える事柄なのだと思われます。
これまでしばらくの間,哲学的なものの考え方についての批判や困難を自分なりにつづってきました。
そのような困難がありながら,あえて哲学をすることを如何に捉えるかについては,分析哲学関係の人が語ることが参考になるように思います。
哲学とは,哲学の名のもとに横行しているなぞめいた表現を糾弾する試みである。(中島義道「哲学の道場」70頁)
前々日,引用しそびれたものの,引用がこれです。
いわゆる論理実証主義者のスローガンで,孫引きに引きになりますが……。
ちなみに,中島は,このような考え方に対しては
今となっては,こんなに単純なら哲学など本当に必要ないと思います。(同書67頁)
と述べて否定的です。
けれども,私は,哲学というものが行き着くところはつまるところこういうものではないかなと思うのです。
結局,突き詰めて考えていってしまうと,岩盤のようにどうしようもないところに行き着く。
そして,初めて,「それはそれで仕方ない」と割り切っていく,そういう心理状態に至る。
そこから,「普通の人」になっていく。
ウィトゲンシュタインは,哲学を
言葉にかけられた魔法を解いてやることである
とも言いました。
このような境地に通じるのかな,と思っています。
私たちは,考えるために言葉を使いますが,それは元々意思疎通のための道具にすぎないもので,そこで「○○とは何か」という本質を求めようとすると不幸な結果しかまねかないのではないでしょうか。
人生論が哲学なのか,ということもしばらく前に取り上げました。
しかし,哲学自体が,問題となりうるものか,すなわち,答のあるものなのか,ということも同様に問題です。
結局,人生の問題と同様,哲学上の問題も
考えても仕方のないことだ。
というように,その問題が消失することによって,解決する類の問題なのではないか,と思います。
そして,このような境地は,普通の人が既に到達している場所でしょう。
悩みがちな主人公に,常識人の知人が
そんなことを考えても仕方ないよ。
と声をかけるような場面は,小説やドラマでいくらでも見るところのものです。
哲学をしてしまう人というのは,このような平凡な場所まで行くのに,哲学的に突き詰めて考えることを必要とする人です。
哲学に価値があるとすれば,このような哲学を必要とする人が存在とする人のところにあるのでしょう。
そして,それがない人には,単なる無です。
需要のあるところに価値がある。
非常に平凡な答になりましたが,さしあたり,私が,哲学に対して持っている価値観はこのようなものです。