「日誌撰集」
□哲学の価値
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第3 哲学研究の価値
1 はじめに
先日も話しましたが,このサイトの運営を自分で始めてから,ほかの哲学関係のサイトも興味を持って見るようになりました。
ブログでも,この「用語集」よりかなり気合いの入ったものがあります。
例えば,大学の先生のブログで,ハーバーマスの著作の一単語の意味を理解することに対する悩みが吐露されたり,また,職業哲学者ではない人が英語の古典の翻訳をしているのをコンテンツとしてホームページに掲載しているのを見ると本当に圧倒されます。自分の気になったことだけ考えて,体系的な勉強をして来なかった身としては,肩身が狭く感じます。
とはいえ,同時に「それがどうした。」とも感じるのです。
というのは,私たちが考えるべきなのは,「事象そのもの」(フッサール)だからです。
ほかの人の考え方を摂取するというのは,そのための一手段にすぎません。もちろん,その他人の考え方も間違っているかも知れないのですから,批判的に摂取しなければなりません。
ところが,余り特定の人の研究にのめり込むとその批判的な部分が無くなってしまう。
やはり,自分のやっていたことが最後馬鹿馬鹿しいことだったと思いたい人はいませんから,どうしても,外国の思想家や哲学者の信者になってしまいがちであるように思います。
一時期,フランスの思想家の翻訳物がもてはやされたことがありました。
当時のそれらの思想家の解説を見ても,余り批判的にみるというよりは,無批判にその考え方を広めようとしているものが多かったように思います。
また,一時期のマルクスのブームも同じでしょう。
学生に教授をするはずの大学の教員が無批判にそれを受け容れて垂れ流してしまい,新左翼の団体によるテロの発生等の諸々の不幸がもたらされました。
何よりも,制度批判だけがやかましくなり,合目的的な制度構築をしようという発想自体が失われてしまったことが最大の問題です。
少し前に,NHKのテレビで一般視聴者を交えた討論会を見ました。
年金制を取り扱うものでした。
その中で,いわゆる団塊の世代の人たちが,「社会保障制度を充実させる」という意見と「増税はしない」という意見の両方を何ら躊躇することなく述べていたことに違和感を感じました。
まったく同じ人がそのような二つの意見を言うのです。
「年金を出す」と言っても,「国家さん」という具体的個人がお金を出すわけではありません。
社会保険料と言おうが,税金と言おうが,結局,私たち1人1人の労働によって得たお金が元手になって,年金が払われるのです。
当然,年金の支払いを増やすためには,私たち1人1人の負担を増やさなければならないわけで,そのような相矛盾する意見を何らおかしいと思わない,そんな人たちが,日本社会をリードして行き,そして,現在も大きな影響を及ぼしているということに恐ろしさを感じます。
結局,マルクス主義的な考え方は,日本では,単なる制度批判的な,というよりは,制度享受的で,制度の実現のための自己犠牲をまったく考えないような利己的かつ依存的な人間を作り出してしまったと言えます
外国人の思想家の言葉の意味に注意を向けることにはそんなあやうさがあります。
そもそも,言葉の本当の意味とは何でしょう。仮に,その言葉をどのような意味で使うことを意図したのかを問題にするなら本当にその意思がわかるのかという問題が出てきますし,そもそも,そのことで語った人をいわば神格化することになってしまうのではないかと思います。