「日誌撰集」

□哲学の価値
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2 翻訳の困難

(1)本質的な困難

 先に,翻訳の話を取り上げましたが,日本で言うところの哲学の研究者は,ほとんどが西洋哲学の研究者であり,欧米の哲学者の著作から着想を得ています。
 ですから,日本の哲学研究者の主張の正しさは,欧米の哲学者の主張の正しさに依存しているとも言えます。
 しかし,そこには翻訳の困難という問題があります。
 翻訳は困難である。したがって,正しい翻訳に基づくものではない以上,欧米の哲学者の主張に基づくものとされるはずの日本の哲学研究者の主張は正しくない,そういう関係にあるといえます。

“何もマルクスの著作に限らず一般的に言えることですが,翻訳は一種の解釈作業ですから,訳者によるバイアス(偏見)がどうしてもかかります。訳者本人は原文に対応する一義的な訳文を作ったつもりでも,原文を知らない読者には多義的な訳文になっていたり,誤解される訳文になってしまっていたり,こういうことが起きるのは翻訳の宿命というべきでしょう。”(廣松渉「今こそマルクスを読み返す」16頁)

 この廣松の問題意識は,私のような語学力のない者には切実です。
 結局,原著を読まなければ,翻訳された著作に書かれている「本当の」意味を理解することはできないというのですから。

 しかし,言語の違うすなわち,社会生活が違う私たちが,外国語で書かれた著作の「本当の」意味を理解できるのでしょうか?

 この点では,次の清水幾太郎の歎きが切実です。

“(ある英単語)が英語国民の生活のうちに持っている感じは見当がつかない。辞書を利用すれば,それに対応すると考えられる日本語を知ることが出来るけれども,それが英語国民の心中に持つニュアンスを覗いて見ることはできない。(略)言語分析の問題に出会うと,私たちは,関心だけあって能力のない傍観者になるほかはない。”(清水幾太郎「倫理学ノート」62頁)

 別に清水幾太郎の語学力がないなどというわけではありません。
「倫理学ノート」の末尾の引用文献一覧記載の文献は日本人の書くものは無意味であるかのように未翻訳の文献が挙げられています。

 私も人のことを言えませんが,最近(というわけでもないですが)の研究者の著作には,学術研究のための大学の予算がついているものであっても,主要参考文献に川本隆史の「現代倫理学の冒険」という一般書が挙げられるようなものがあり,このことからすると隔世の観というか・・。

 清水のような語学力のある人でもこうなのですから,翻訳は本当に大変です。

 以上のような廣松及び清水の例は,正確に翻訳をしようと思っても,適確な表現のできる客観的諸条件が満たされないことや,生育条件に伴う言語生活に由来する限界から,適確な翻訳ができないというものですが,時折,単純な誤りが問題になることがあります。
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