「日誌撰集」

□生きることの意味第T集
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(4)直示的定義の可能性/不可能性 

 しかし,前提として,そもそもそれ自体可能なのかどうかを問題にする余地は無いのでしょうか。
 我々は,言語とその対象との関係を学習することができる,と考えてしまいます。
 できないとするなら,言葉の意味が分かるということ自体あり得ないのではないか,という気もしてきます。
 しかし,こう考えることはできないでようか,そもそも言葉の意味など分からないのだ,と。

 私たちが,「言葉の意味がわかる」と言いたくなるとき,その文とは異なる用法で語るべき事柄をそのような文で言い表してしまっているのである。
 いったい言葉の意味が分かるというのは,どういうことなのでしょうか。

 言葉の意味とは,言葉とその対象との関係を正確に知っていることである,というのが普通の感覚でしょう。
 そうすると,次に,私たちは,「正確に知っていること」をどういう風にして知ることができるか,という問題に直面します。
 「正確に知っているかどうか」が判定できなければ,言葉とその対象との関係についての知識が正しいかどうかの判断ができなくなってしまいますから。

 私たちは,言葉を使う者を大きく2つに区分します。 他者とそして「私」です。
 そして,「私」が言葉を正しく使っていることを「私」が知ることができるか,ということが問題です。
 なぜなら,他者が言葉を正しく使っているかどうかを知ることはできるためには,前提として,「私」が正しい言葉の使い方を知っている必要があるからです。
 けれども,「私」は,言葉の正しい使い方の基準は分からないのです。 言うまでもなく,言葉は,「私」が作ったものではありません。
 他人から教えられることによって,「私」は言葉を知るのです。(その意味では,「自分の言葉」などはあり得ません。
 よく「自分の言葉で語れ」などといわれるが,多分に「比喩的」「情緒的」なものだと思います。) そうすると,「言葉の使い方」の基準も他人から与えられたもののはずであり,それは,「私」が盲目的に受容したものなのです。
 しかし,私たちは,明らかにある言葉を特定の対象と関係づけられたものとして把握します。
 では,私たちが,「言葉の意味」と言っているものの内実は何なのでしょうか。
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