「日誌撰集」
□生きることの意味第T集
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(6)言語の学習過程再論
私たちは,他者,典型的には,「親」などの近親者から言葉を学びます。
ただし,それは,学校での教科学習のように体系的に行われるのではありません。
極く初期段階では,体系的な知識を受容するために必要な言葉自体が与えられていないからです。
さらには、そもそも親が「にゃんにゃん」と言って指し示すその対象が何であるのかも,子どもには判然としません。
だから,まず,子供は,指し示される対象が何なのかを推測することとなります。
その上で,親の発する語「にゃんにゃん」が適用される対象を推測する。
先にも述べたように,その場合,指さす対象を背景にある樹木であると推測することもあるでしょうし,指さすその指先と推測する場合もあるでしょう。
まだ言葉を持たない子供には,親が使っている言葉の対象と自分の推測が一致することを知る手がかりはありません。
では,親が使っている言葉の対象と子供自身の推測が一致することをどのようにして子供は知るのでしょうか。
それは,子供自身が使ってみることによって与えられます。
実際,子供が言葉を適用してみます。
親と同じように指を指して「にゃんにゃん」という言葉を発する。
木を指さしたり,犬を指さしたりすれば,「違うよ,あれは木だよ。」,「わんわんじゃない。」と親から否定されます。
それで,親が「にゃんにゃん」を適用する対象を学習していく。
このような学習課程であるため,子供には,親の使っている言葉の意味それ自体が与えられるわけではありません。
子供が指さされた対象を背景の木だと思っていたり,「四足歩行する生物一般」であると思っていた場合は,まだわかり易いでしょう。 親は、適用対象ではない事物にその言葉を使っているのを容易に知ることができるので、注意も容易だからです。
しかし,子供が「にゃんにゃん」の適用対象を「猫のしっぽ(だけ)」だと思っていた場合は,どうなるでしょうか。
子供は行動としては,猫を指さしはしながら,「にゃんにゃん」と言うでしょう。
親にも,猫をにゃんにゃんと言っているようにしか見えません。
したがって,親の使う「にゃんにゃん」と子供の使う「にゃんにゃん」の適用対象が異なるという事態に気づく可能性は非常に低いといえます。
子供は,「本当は」言葉を誤用しているのですが,社会生活の中では,「にゃんにゃん」という言葉をまったく問題なく使っていることになるでしょう。
したがって,言葉の学習は,とりあえず,「使えればそれでよい」という形でなされるにすぎません。
「にゃんにゃん」という言葉の本質的な意味の探求などはそこでは行われません。
なぜなら,言葉は,それ自体意思疎通のための道具なのであって,差し当たり,意思疎通ができるのであれば問題はないからです。
ここに至って私たちは,「言葉は観念の表示である。」というジョン・ロック的な観点を捨てることになります。
言葉は人の観念から生じるのではなく,人が社会的な関係の中にあって初めて生まれるものなのです。