「日誌撰集」

□生きることの意味第T集
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(6)なぜ,日本語を問題とするのか。

「生きる」ということは,日本人に限らず,どんな人種,言語を持っている人についても共通の問題なのだから,「日本語の用法」という言い方では狭すぎるのではないか。

 このような考え方は,言語以前に,観念というものが存在するという考え方を前提とします。
 たとえば,猫は,英語でcatになるけれども,猫やcatという言葉とは別に,猫やcatで言い表されるような観念があるのではないか,というのは普通と言えば,普通の発想です。

 しかしながら,現在の言語学上の一般的な考え方では,具体的な言語以前に観念は存在しないものとされています。
 少し前にも,取り上げたが,言葉は既に存在する観念に与えられる名称ではありません。 
 たとえば,「にゃんにゃん」を「四足歩行をする生物」と捉える幼児に「犬」は存在しません。 
 そのような幼児にとって,「犬」もやはり「にゃんにゃん」なのです。
 親から,「にゃんにゃんじゃないよ。『犬』だよ。」と言われることによって(「犬」ではなくて,「わんわん」ではないか,という突っ込みはご容赦願いたい),初めて,「犬」という観念を獲得します。

 だから,言葉は既に存在する観念に与えられる名称なのではありません。
 言葉と同時に観念が現れるのです。 

 したがって,言葉とそれが表象しようとする観念との関係は,不可分であって,内在的といえるのです。

 このことは,日本語と外国語の占める位置の違いということからも分かります。
 たとえば,「tell」は「話す」ですが,日本語の「命じる」という用法でも使われます。
 このように言葉とそれに対応する観念の関係は,言語ごとに偶然的なものです。

 したがって,言葉の意味を問題とするときには,各言語ごとにその意味を検討しなければなりません。
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