「日誌撰集」
□生きることの意味第T集
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第3 「生きることの当為としての理由」
1 ル・サンチマン(弱者の復讐心)としての問い
「生きることの意味」を問おうとしている人は,生きることの「本当の」理由を聞こうとしています。
「本当の理由」とは何を問おうとするものでしょうか。
これも,究極的には人それぞれとなるでしょう。
しかし,この種の問いに係わる話を目にする限り,次のことは言えると思います。
問いによって答えられるべき理由は
「生きることを義務づけるような理由」
でなければならないということ。
生きるか死ぬかが人それぞれであるなら,そもそもこのような問いを発する必要はありません。
それは単なる好みに関することにすぎず,たとえば,「どんな食べ物が好きか」という問いを発するのと同じですから。
多分,「どんな食べ物が好きか」と同種の問いということになれば,本当に答えは多様にあるのでしょうし,また,深刻に発せられることもないでしょう。
しかし,「生きることの理由」を聞く質問は,それを聞いた人には深刻に発せられたものと受け取られ,深刻に答えられるでしょう。
なぜ,「生きることの理由」を聞く質問は,「どんな食べ物が好きか」という質問と違い深刻な問いになってしまうのでしょうか。
その理由は,「生きることの意味」や「理由」を聞く質問に対する答のあり様から見て取ることができます。
この種の問いに対する相当数の答は,性急さを伴いがちです。
吐き捨てるように書き捨てられる感じがします。
どこかに焦りがあって,問いを発する人とゆっくり話をして,一緒に考えるという態度はありません。
なぜでしょうか。
それは,「生きることの意味」そして「生きることの理由」を問う質問は,「生きることへの否定的な感情」を伴っているからにほかなりません。
そこに本能的な嫌悪を感じ,そして,自己防衛的に性急な答を発するのです。