「日誌撰集」

□生きることの意味第T集
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【戦術としての世界の義務論的構成】

 普通に楽しく生きている。
 それが幸福な人生というものですが,そのような人生ではない自分の人生を価値あるものとすること。
 あるいは,普通に楽しく生きるような人生に価値がないことにすること。
 
 本来は,普通に楽しく生きることができるように力を磨くべきなのですが,怠惰,あるいは,自分の能力に対する卑下から,ある種の人は,その錬磨をすることができません。
 そうすれば,悲いかな人生に満足することはできません。
 けれども,努力をせずに,考えること,これは容易にできるように思う。
 どうしたら,自分の人生を価値あるものとすることができるか。

 普通に楽しく生きている。平凡な価値ある人生は,自由の性格を帯びています。
 個々人が自分の求める価値を自由に選択し,それが実現されている人生です。

 人生に不満を持つ人は,このような「自由」に基盤を置く人生に価値を「見いだしたくない」。
 許よりその実現の断念こそが,思索の動機だったからです。
 だから,「自由」に価値を置くという方策とは根本的に別の方策を立てます。
 「義務」によって,自分の人生の価値を高めようとする。

 自分の人生は,義務を果たしていることによって価値づけられる。
 ほかの人の人生は,普通に楽しく生きる人生は,このような義務を果たしていない。
 だから,普通の人の人生は価値がなく,自分の人生には価値がある。

 そこでいう「義務」は,誰しもが負担しているはずの義務でなければなりません。
 そうでなければ,自分の人生にそのことが義務づけられているとは言い難いし,他人の人生に対してなら尚更だからです。
 だから,「義務」は,人が人として生きる限り当然負わねばならないような普遍的な義務でなければなりません。
 その意味で,「本質的な」ものである必要があります。
 
 さて,義務を語る以前に,「自由」の価値に基盤を置く人生,これが否定されなければなりません。
 そこで,採られる戦術は,ソクラテスの問いと同じです。
 
 「それは本当に価値があるものだろうか。」

 誰しもが,それを追い求めているわけではないということ。
 何らかの物的欲求を満たすことに対しては,その物が,経年変化によって,あるいは,何らかの事故等によって毀損するものであること。
 そして,大凡,享楽を満たすことに対しては,それがうたかたのものにすぎないこと。

 「自由」に価値を置く人生に対しては,毀損していく価値という意味での相対性を持ち出して否定をしていきます。
 若干,付言しますが,「価値の相対性」は,大きく分けると二つの意味で使われる。
 1つは,何を良いとし,何を悪いとするのかは,「個々人」の好みによる,という意味ので。
 もう1つは,永続性がないという意味で。
 どちらかというと,前者の意味で用いられるものの方が目に入りやすいと思います。
 後者の意味で用いられるのは,仏教用語における三法印(さんぼういん)のうち諸行無常を説明する場合です。
 諸行無常とは,世界の中に永続する実体はないこと,花は枯れ,朽ちて,滅し,人は負い死を迎える。この世の中にあるものは,永遠にあり続けず,はかないものであるという見方です。

 このような相対的な価値に対して,普遍的な価値を担っているものではないと批判をすること。
 それが人生の意味を問おうとする人の戦術です。
 そう言われれば,何か「普遍的な価値」の方がより価値があるような感じがする。
 
 そして,普遍的な価値を懐胎するような生き方の探求が始まります。
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