「日誌撰集」
□生きることの意味第T集
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2 系譜学的考察
少し整理し直しましょう。
「生きる理由」を問う問いは,自己の人生に対する否定的な評価から生まれるということ。
そして,自己の人生を相対的に高まったものにすることを目的とすること。
そのために,他人の人生を貶めること。
その手段として,人生を義務的に再構成し,自己はその義務を認識して生きており,他人はその義務を知らないで生きているものとして批判すること。
前提として「楽しい普通の人生」を送っている人の持つ人生に対する価値観を相対的なものとして否定すること。
最後,「普遍的な価値」の探求へと向かうこと。
このようなことを語ってきました。
以上のようなある主張を検討する上で,その主張をする人の動機を批判的に検討するやり方を「系譜学的考察」と言います。
その典型がニーチェの道徳批判です。
ニーチェは,道徳とは,弱者の怨恨感情に基づくものであると言います。
弱者は,弱いが力を得たい。
しかし,強者から身を守り,更にはより良い人生を営みたい。
では,どうするか?
現実的な力を持つ者,すなわち,強者をある論理によって自己の支配下へ置くこと。
ある論理とは,すなわち,道徳です。
以上のような趣旨のことを言います。
道徳が生まれた根拠は,弱者の力の獲得のため,弱者がよりよく生きるという専ら利己的な目的のためです。したがって,到底道徳的とは言い難い来歴があるということになります。
その点で,道徳は論理矛盾を抱えています。
以上が道徳批判の概要です。
私は,以上のような考え方を元々持っていたのですが,永井均の『これがニーチェだ』を読んだとき,自分と同じ様な考え方があることに自信を持ち,同時に,自分自身の考える程度のことは,既にほかの誰かが考えているのだと少し寂しくなりました。
因みに,このような発想を表立って語ったのは,ニーチェが最初だったのかな,と思っっていました。
しかし,先日,シュヴェークラーの『西洋哲学史上巻』を読んでいたところ,次のような記述に出会いました。
ギリシア哲学のソフィストに関する記述です。
(カリクレスとトラシュマコス)の二人は,はっきりと,強者の権利は自然の法であり,奔放な享楽は強者の自然の権利であり,拘束的な法律の制定は弱者の狡猾な発明である。
(同書96頁)
ニーチェの記述と同じ様な発想で,改めて自分の不勉強を知らされた次第です。