「日誌撰集」
□生きることの意味第T集
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4 「生」に「価値」がない理由
「生きることの理由」を問う問には,生に対する否定的な評価があるとはいえ,この評価それ自体が払拭できれば,問題がありません。
そこで,「生には価値があるか」が問題となります。
私は,生きることには価値があると思っています。
しかし,ここで問題にすべき価値はそのような意味での価値ではありません。
私個人の好みに合っているという価値ではないのです。
個々人の好みの意味での価値ということであれば,生は価値のないと思う人にとってはない,ということに収まってしまいます。
問題にすべきなのは,生きることに対して個人的な好みという意味での価値を見いだせない人すら,生を選択しなければならないというような普遍的な意味での価値です。
生を選択しなければならないような義務としての価値です。
個人の好みに合っているという意味での価値というものについて,付言しますと,たとえば,「私はカレーライスが好き」というものがありますね。
ただ,私が好きでも,他人に,殊にカレーライスが嫌いな他人に無理やり食べさせることはできませんよね。
個人の好みに付き合わせるな,ということです。
私たちの価値観というのは,通常のこのような「自分の好みに合っている(あるいは,合わない)」というような感覚を意味します。
しかし,何となく「生」に対しては,個人の好き嫌いを越えて価値があるものにしなければならないと思っている(ような主張をしてしまっていると思える)人が実に多い。
けれども(逆接が続いてすみません),本当に私たちの「生」というものはそんなに価値があるのでしょうか。
「生きることの理由」を考えるに当たっては,この問題を避けて通るわけにはいきません。
そして,「生」の価値というのは,どうやら「カレーライスが好き」というような個人の好みとしての価値の域を出ないように思えるのです。