「日誌撰集」

□生きることの意味第T集
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(4)結語
 
 生にはどことなく空虚さが伴います。
 その所以は何でしょうか?

 それは,そもそも私たちが死に向かう存在だからではないでしょうか。

 私たちはいつか死ぬ。
 今の人生がどんなに楽しくても,あるいは,必死に努力をして生きていき,何らかの成果を挙げてもいつか死ぬ。
 私たちが生きる間にしてきたこと,それは,死によってすべて無に帰す。
 すると,それまでしてきたことは何だったのだろうか?
 そこに私たちが生きることの意味を考える出発点がある。

 私たちが自分たちの生に死後の未来への連続性の希望を重ねる,たとえば,家族や知人の思い出に残るとか,生きている証をこの世界に残すとかいうことを言いたくなるのは,死によって終わる自分の存在を何とかしてこの世界に繋ぎ止めようとする試みにほかなりません。
 しかし,それもむなしい試みであることは,前回考えてみたとおりです。

 私たちが自分たちの固有の生の意味について考えることができるようになったというのは,幸福なことです。
 それは個人の立場の自覚と確立を第一義に置く個人主義の成果だからです。
 家族でも,共同体でも,国家のものでもない,自分自身固有の生という認識。
 それは,何者にも捕らわれることのない自由な生き方の選択が私たちにあることを教えてくれるものです。
 他方,そのことによって,自分の生が連続性を有していること,共同体や歴史とつながっているという認識を失わせ,切り離されたものとしてしまいました。
 
 サルトルは,被投性という考え方を提示しました。
 
 私たちがこの世界にいるのは,偶然のことにすぎず,私たちは,不条理にこの世界の中に投げ出された存在である。
 そうであるならば,私たち固有の生がそのような不条理なものにすぎないのならば,いっそ,歴史の必然の中に身を委ねてみよう。

 そのように語って,歴史の必然であるところのマルクス主義を称揚して,私たちの固有の生という認識とその生の普遍的なものへの接続を試みました。
 終戦後の一時期,そのような政治運動が盛り上がった理由は,政治運動に参加することが,固有の生に対する連続性を与えるように思われたからでしょう。
 
 しかしながら,そのような歴史の必然などというものが,それ自体幻想であることを私たちは知ってしまっています。
 
 若者が起こした事件が報道されるときに,「若者に刹那主義的な考え方が広まっている」などということが紋切り型のようなコメントが良く出されます。
 しかし,刹那主義的なのは当たり前の話であって,問題は刹那主義を前提として,なお,固有の生の価値を提示できるかどうか,ということでしょう。
少なくとも刹那主義的な考え方を持つようになることができたというのは,太平洋戦争当時の日本人の当たり前の認識,自己の生が民族や国家と結びつき,たとえ,死んでも民族や国家が存続することによってその生が意味を持つという認識を払拭したことなのですから。

 どうやら,単純な「好み」という価値の次元では,やはり,生に価値を見いだすことは難しいようです。
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