「日誌撰集」

□生きることの意味第T集
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【約束説と自然説】

 言葉の本質については,ギリシア時代には,自然説と約束説の対立がありました。 それぞれの見解は

[T]約束説
 言語の本質について,言語は,何らかの仕方でそれが表す対象と共通な性質を保有していることから,言語の表現性が成立するという見解
[U]自然説
 言語の本質について,言語は,恣意的に,約束や慣習により,言語の表現性が成立するという見解

ということになります。

 さて,世界にはいろいろな言葉あります。
 「同じこと」を言い表すことについても,様々な言い方があります。(※それぞれの言葉が言い表すものが,本当に「同じこと」であるのか,どうかも大問題なので,以後検討しますが,この点は,考察にあたって矛盾は来さないので,差し当たり措いておきます。)
 そうすると,各地域に暮らしている人の約束の産物にすぎないのではないか,という気もします。
 また,実際,新しい事物が出てきた場合,これはこう言おうと決めて,新しい言葉を作ると,それで決まったりします。 この新しい言葉は,たとえば,i-podでもいいですし,トントロでもいいのですが,そうやった言葉の使い方を決めると,それで決まってしまうわけです。そうすると,約束説が正しいような感じもします。

 しかし,他方で,そもそもそんな約束をいつしただろうか,という疑問もあります。
 気づくと,その言葉を使っているわけです。
 自分が言葉を覚えたときのことなんてだれも覚えていませんから,厳密に,そんな約束したのか,と言われると困ってしまう。
 両親が使っている言葉を引き継いで使っている,慣習として継承しているのだ,という言い方もできるような気もしますが,では,その両親はいつ言葉の使い方を決めたのか,という問いがでてきます。
 更に祖父母,曾祖父母等々となってくると,約束ができた瞬間に立ち会った人はいませんから,どうもよく分からない,ということになってくる。
 また,私たちは,よく「正しい日本語」,「間違った日本語」などという言い方をするし,「○○の本当の意味は何だろう」(!)という疑問を持ったりもする。
 以前,新聞の投書で,「全国」という言い方はおかしいというものがありました。
 「全国」というと,通常,「全都道府県」の意味で使うのですが,その当初によると,「全国」というだけなら,「全部の国」なのだから,「全世界の国」を意味するはずだから,言い方としておかしい,というのです。

 言葉が合意によって作られた単なる決まりや約束にすぎないのなら,当事者間の合意があれば,どんな言い方をしてもいいはずです。
 しかし,「間違った日本語」,「本当の意味」という言い方をする以上,そこには,単なる合意ではない,「本当の言葉」が存在し,我々は知的能力を使ってその言葉を知って,具体的な発話をするのだ,という言い方もあながちばかげたものではない,ということになってくる感じもします。

 この議論が,ギリシア時代から延々と繰り返されてきた(廣松渉「世界の教導主観的存在構造」79頁)所以でしょう。
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