「日誌撰集」
□法曹関係小論集
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「法科大学院教育について(2)」
《判例・通説の知識を記憶することに対する批判の妥当性》
判例・通説の批判が重要であるという法科大学院の教官も未だに多く,伊藤眞は,法科大学院生が判例・通説を要領よく身につけようとすることについて
筆者は,このような傾向をかねてから「判例・通説依存症候群」と呼んでいるが,(中略)「確立された実務」の妥当性などを検証することを通じて,理論の正当性についての問題意識を深めることこそ,判例・通説症候群から離れた,真の理論教育や実務教育の目標ではないだろうか。
などと語ります(伊藤前掲51頁)。
このような主張は,これまでにも同様の主張がなされてきたこともあって,耳障り良く聞こえます。
しかし,繰り返しなされてきたという惰性と特に研究者の場合は自己の存在意義も問われることから,多くの論者はその主張の正しさを盲目的に前提にしているように思えます。
そこで,上記のような主張の正しさを再検討する意義があることになります。
《原理的な視点》
1 正しい理論は存在するか?
まず,このような主張は
「真の理論」
が存在することを前提とします。
しかし,「真の理論」というものが存在するのでしょうか。
専門的な話になってきますが,「制定法解釈」とは,いかなるものであるのかが問題となります。
比較的典型的な言い方からすれば,「制定法の文言の『本当の』意味内容を明らかにすること」ということになるでしょう。
けれども,言葉に本当の意味がないことは言語学上の常識です。
また,制定法解釈学は,道徳や秩序はいかにあるべきかという「規範倫理学」の一分野といえますが,規範倫理学には,価値に関する「相対主義,多元主義,あるいは,比較不能性」の問題から合理的に議論することはできないかという懐疑的な考えが強くあります。
このような事情から,制定法解釈学の方法論自体が未確立であって,そのような状況で,「新の理論」なるものが果たして語りうるか疑問なのです。
(なお,私は,「制定法の意味内容を語ることは,制定法の文言を題材に論者にとって可能な限り都合のよい秩序を作り出そうとする戦略行為である」と考えています。)
2 批判は可能か?
次に,一般論として,批判することが可能か問題となります。
批判とは,「ある主張をする論者に対し,根拠を示してその主張の撤回を求める」行為であると言えます。
けれども,どのような場合にそのような撤回を求めることができるかの正当性を考えると疑問が湧きます。
カール・ポパーは,反証可能性という考え方を提示しました。
……正直,これまでの「日誌」中に繰り返しポパーは出てきており,前にも同じようなことを書いていたのですが,毎度同じ話で失礼いたします!
ポパーは,科学哲学に影響を与えた人ですが,彼は,「論理的に帰納はできないが,一般法則と矛盾する具体的事実を明らかにすることで反証はできる」と主張し,反証主義を唱えました。
そして,反証が成立した考え方を放棄すべきだという考え方は当たり前のように思います。
けれども,その後,このようなポパーの考え方への批判が出てきます。
科学の歴史を振り返ると,ある理論に対して反証となるような事例が出たときでも,当該理論を保守し続け,平行して別の研究が進むうちに,先の反証となるような事例が反証とならないことが分かるということがあります。
たとえば,パスツールは,病気の原因について,当時の通説に反し,外部からの病原菌によって発生すると主張しました。
そして,その証明のために,自ら病原菌の入っている液体を飲んだのです。
しかし,パスツールの身体に異常は生じませんでした。
理由は,胃液で病原菌が死滅したからなのですが,この実験でパスツールの言った「理論」が間違いとして放棄されれば,医学の発展は遅れたのではないでしょうか。
そこで,反証になるような事例が現れても,さしあたり,元の理論を保守しようという「ドグマ的」態度も必要になってくるのです。
このように,批判をすると言っても,簡単な事ではなく,そのきちんとした方法論がいるのですが,それをどこまで考えているのかというと,疑問を感じます。