「日誌撰集」

□法曹関係小論集
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法科大学院教育について(3)




かつての司法試験予備校の弊害として,受験生の欠く文章が定型化するとの批判もよく見られました。

たとえば

司法試験委員を5年ほどやっておりますが,大学の試験の答案と司法試験の答案を見比べてみますと,大学の試験の答案のほうがはるかにおもしろい。(中略)これはおそらく,司法試験がむずかしすぎるので,この論点とこの論点のつながりとかを考えていたのでは間に合わないというところがあると思うのです。とにかく点を押さえておいて,その点について書いておけばそれなりの答案は書ける。それなりの答案が書ければ,一応合格レベルに達するということですから,知識といっても,体系的というか,つながりのなかで知識が全然身に付いていないということを実感しているのです。
(浦部法穂発言・日弁連法務研究財団『フォーラム次世代法曹教育』)

というものです。
しかし,本当にこのような批判が成立するのか疑問です。

第1に,制定法解釈学が本当に正しい解釈を探究しているのであれば,答が1つしかない以上,書く内容が定型化するのは当然でしょう。

第2に,書店には,「文章の書き方」,「論文の書き方」の類の本は,数多くあります。
それを見ると,文章はその目的によって,或る程度定型化された書き方が存在するのは明白です。
研究者が論文の査読をするにあたっても,文献の引用方法などといった定型的な部分で落とされるということもあるわけですから。

第3に,制定法を解釈し,自分の見解を示すことは,説得を通し自己の考え方を他人に内面化させて押し付ける戦略的行為です。
したがって,その行為としての性質は,科学的な探究というよりは,芸術に親近性があります。
そして,人間の感情――戦略的行為としての説得であれば,「納得した」という感情――を支配するための行為として「当たり易い」行為というのが存在するはずであり,それを身につけるということが悪いとは言えません。

第4に,制定法解釈学が,現実問題として,上記「第1」に示したような「『唯一の解釈』を提示しているわけではない」ことからすると,学界で説得力があるとされている見解や説明の類は,結局のところ,研究者集団における――すなわち,普遍的なものではない――議論の慣習から有力なものとなっているに過ぎないというべきです。
この点,「議論において,どのような見解が説得力のあるものとして取り扱われるかについては,事実上慣習があるかも知れないが,その『慣習』自体の妥当性も議論の対象となるのだから,問題ない。」という反論も聞こえそうです。
しかし,「『慣習』について議論ができる」と言っても,事態は変わりません。
というのは,その「慣習」について議論をする上でのどのような考え方が優越するのかについて考えるとまた別の「慣習」を出さざるを得ないからです。

このように考えると,冒頭に挙げたような批判は,それ自体型にはまりすぎた批判とはならない批判であることが分かります。
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