「日誌撰集」

□法曹関係小論集
9ページ/13ページ

「法科大学院教育について(4)」



《現象面における研究者の問題点》

これまで法科大学院教育が論じられる前提として

研究者による研究は優れているのだ

という考え方がありました。
研究者による研究は優れているから,それと異なる実務は改善されるべきだ,という考え方を前提として議論がされていたように思います。
伊藤眞の前掲論文においても

研究者教員は(中略)研究という重大な責任を果たさなければならない

という気負った記載があります(伊藤前掲51頁)。
しかし,研究者による研究は本当に優れているのでしょうか。
そもそも制定法解釈というものが,唯一の真理を探究するものではなく,制定法を題材に論者によって都合のよい秩序を作り出そうとする戦略的行為であるならば,そもそもそこに真偽,優劣は存在し得ないでしょう。
したがって,まず,制定法解釈とはいかなるものか,論者がいかなるものを制定法解釈として取り扱うのか,という根源的な問題をまず解決する必要があるはずです。
しかし,多くの制定法解釈学者は,そのような基礎的な問題については,まったく考えずに,個々の解釈論――基礎論が固まっていない以上,明らかに無意味――にとらわれています。

このような基礎的な問題のほかに,本当に研究者の考察態度が望ましいかには疑問があります。

すなわち,個々の解釈論は,つまるところ,論者個々人の主観的な判断の吐露にすぎないわけですから,それを教育するとなった場合は,論者の唱える考え方が十分相対化される必要があります。
しかしながら,実際の教育の場面においては,自分の考え方と異なる考え方の批判が強くなされ,あるいは,その教員の師匠筋に当たる人物の考え方が殊更礼賛されるという傾向は法科大学院教育においても認められるようです。

無論,その唱えている内容が異説であろうがなにであろうが,「正しい」と言えればよいのですが,問題は,制定法解釈に有用性を見出すべき基準がないことが大きいといえます。
これが自然科学の問題であれば,理論や理屈がわからなくとも,素人であっても,その研究の成果の有用性はわかります。
たとえば,医学上の新発見の有用性は,それによりある疾病が治癒するという現象を見ることによって容易に判断できます。
しかし,制定法解釈で示される個々の見解の優劣は,規範倫理学である以上,有用性という基準で判断することはできません。

実際,「有用性」という観点は,自然科学上の研究の価値を判断する上で合理的な基準であると同時に,研究者による発言のインフレを防ぐ効果もあります。

研究者は,「独自の見解」を主張したがります。
研究により,これまで他人のいったことのない独自の発見ができるかどうかというところに研究者の存在価値があるからです。

けれども,研究者が呈示する考え方は,単に独自性があればよいだけではありません。
その見解が普遍的に妥当するものでなければ,妄想と同じです。
したがって,研究者は,独自なものでありながら,普遍的な見解を呈示する必要があります。
その普遍性の有無を判断する上で,有用性という基準は合理的なものといえます。
というのは,「有用」である以上,その見解に対して反発を抱くような人すら,自然とその考え方を選択せざるを得なくなるからです。
そして,普遍性の判断の上で,このような有用性が要求されることによって,研究者が場当たり的で根拠のない主張をすることを防ぐことができました。

けれども,制定法解釈学には,有用性という普遍性を図る基準が存在しません。
そのため,残された「独自性」のみ一人歩きし,研究者の思い込みにしかすぎないようなものが,「学説」として氾濫する状況となっています。

このような普遍性の獲得の悩みから,自分の見解の正しさを極端に外部的なものに求めるような病的な自体も生じています。
たとえば,裁判官であり,民事保全法研究の大家としても知られる瀬木比呂志は,研究者の主張する考え方の中には

「外国法先験的優先主義」とでも呼びたい立場からする立論がある。こうした立場では,とにかく外国法があらゆる議論の基礎になるので,それと異なる考え方はすべて誤っているということになる。

と述べます(瀬木『民事訴訟実務と制度の焦点』579頁)。

また,研究者自身も,中立的な者としてではなく戦略的行為として研究を行う結果,各種の事案を自己に都合のよいように歪めるような場合もあり,この点についても,瀬木が

研究者の判例批評には,非常に孤立した判例(判例雑誌に掲載されていること自体の理由が問われるような判例も時には存在するのである)や,その法律問題については傍論的説示しかしていない判例を,自説補強のためということであろうか,ことさら選択して論じている例があるが,説得力や普遍性を持ちにくいと思う。
(瀬木前掲313頁)

と論じています。

このようなことからすれば,研究者教員の教育の前提となっている「研究」自体が妥当なものであるかは疑問です。
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ