「勉強部屋」

□自由に関する学習帳
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廣松渉『マルクス主義の地平』を読む




 意思自由等の人間の自由の問題は,よく決定論と非決定論との間の議論の帰結に左右されると言われます。
 しかし,廣松は

「決定論と非決定論との対立抗争は,今日のわれわれにとってはおよそ抽象談義である。哲学上の立場的争いはしばしば無内容であるが,この問題の場合にはそういう一般論としてでなく,思想史的な或る経緯から実質が失われるにいたっている。」(195頁)

と言います。
 
【廣松による決定論・非決定論の対立の契機】
 廣松によれば,この二者の対立の契機は,3つであると言います。

[T]キリスト教神学

「キリスト教神学においては,一方では神の絶対的・全一的な支配が主張される。神によることなくしては何事も生じないとされる。この意味において,神の意志による森羅万象の全面的な決定論が立てられる。しかるに,そのとき,悪人の犯罪行為や異教徒ないし背教者の讀神行為のごときも神によって決定された行為となってしまう。(略)この“不都合”を回避するためには,何らかの仕方で人間の自由意志が承認されねばならず,その限りで決定論が立てられることになる。」(195頁〜196頁)

 この立場に対しては,特に,無内容である理由を触れていないが,所詮は神学(いんちき)だから考慮に値せずということになるのでしょう。

[U]道徳論

「道徳論の場面でもProblematikが生ずる。人びとは決定論のもとでは道徳的非難・責任の追及が権利根拠を失うと考えがちである。本人の自由がない場合には,それこそやむをえないのであって,“石が落下する”“石には向上の精神がない”といって批難しないのと同様,また下世話にいう“金魚が裸で泳ぐ”からといって批難しないのと同様に,自由なきところには責任の追及なしというのが世人の了解である。ここから道徳律の根拠として自由意志,非決定論が要請される。」(196頁)

 廣松は,この立場について,「この非決定論は,しかし,学理的には問題がある。」と言います。
 そして,「今,自由意志とそれに続く行為との間に決定論的な必然的関係がなければ責任追及の根拠が却って失われるという点は措くとしても――これに対しては例えばカント的な“解決法”があり――」(196頁)と,決定論と非決定論との対立が実質的な意味を持つとされる論点をあっさり退けた上で(本当にこれでよいのでしょうか,と若干不安になります),「決定論のもとにおいても道徳批難・責任の追及が可能である。」(196頁)と言います。
 その根拠としては,「これを端的に示したものがあの有名な寓話である。――ある奴隷が言った。私は自分の意志で罪を犯したのではない。だから私は笞で打たれるいわれはない。主人が言った。儂はお前を笞で打つよう決定づけられている。儂は打つべく,お前は打たれるべく,宿命づけられているのだ!−−論理的には,こうして,決定論のもとでも,“責任の追及”が一応成立しうるのであって,「汝なすべきが故になし能う」(略)という仕方で非決定論を持ち出すことはできない。」(197頁)と言い切ります。

 何となく,この寓話による説明の方が退けられるのが一般的なような感じもするのですが,意思自由を認めたい私には都合がよいかも……。

[V]近代科学の要請

「近代科学は超越的意志の逐次的鑑賞や事物に内在する霊魂の意志を排除して,万象を力学的な法則性に服せしめる。もし,万象が必然的な法則性に服していなければ,科学的探求は無意味になってしまうと思念される。(略)元来,神の定め給うた必然的法則の解読という思念から出発した関係もあり,科学は,客観的偶然性,従ってまた,必然性の連鎖を破るものとしての“自由”なるものは存在しないということ,この決定論を要請Postulatとして立てたのであった。(略)とはいえ,神の奇跡的干与や実体形相といったアニマを卻けて近代的科学主義が歴史的に形成された局面では,当の決定論,科学的決定論が絶対的定律として主張されることに現実的な意味があった。このことは承認されてしかるべきであろう。」(197頁)

 この立場を無内容を理由付ける廣松の主張は,やや晦渋ですが,結局,「歴史法則を統計的法則として理解する」(216頁)ということを通じて,決定論と非決定論との対立が解消されるということになるようです。
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