「勉強部屋」

□自由に関する学習帳
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キリスト者と自由



元々キリスト教神学関係の本も少し目を通そうかなと思っていたのですが,「普通のキリスト教を持ち上げるような本」を読むのは生産性が低いと思っていたため,読みあぐねいていたのですが,バート・D・アーマンの『破綻した神キリスト』(松田和也訳・柏書房)は、大学で聖書研究をしていた研究者がキリスト教の教義を批判的に取り扱った本ということ
で参考になる本です。

元々敬虔なキリスト教徒だったということで,そのとき,彼が関心を持っていたテーマが「もしこの世に全能にして愛なる神が存在するのなら,何ゆえに世はかくも仮借なき苦痛,筆舌に尽くし難き苦難に満ちているのだろうか?」という問題だったそうです(11頁)。
筆者は,これらの問題を矛盾なく説明することはできないと考えたこともあり,キリスト教を捨てたということだそうです。
そんなことすぐに気づくだろうという気もするのですが,どんなものであれ,1回宗教とかに嵌ってしまうと,抜け出すのはどんな人にも難しいということの証拠でしょう。

ちなみに,このような問題を「神義論」と言うそうで,その問題の核心は

@ 神は全能である。
A 神は愛である。
B この世には苦しみがある。

という三つの命題を同時に真とするにはどうしたらよいのか?どれかが偽の命題になるということなのか?になるといいます(19頁)。
命題のどれかを否定するタイプには,それぞれ次のような批判がなされると言います。

[T]命題@を否定する。これには,「神は実際には神ではない」というに等しいという批判がされる。(19〜20頁)

[U]命題Aを否定する。これにも,やはり「神は実際には神ではない」というに等しいという批判がされる。(20頁)

[V]命題Bを否定する。「実際にはこの世界には苦しみなどない」と主張するものだが,これは圧倒的少数派であり,あまり説得力がない。(20頁)

以上のように説明に困難があるとされるところで,「現代の標準的な説明」(24頁)は

この世界に甚だしい苦しみが満ち満ちているのは,神が人間に自由意志を与えたからだ。自由意志によって神を愛し,従うのでなければ,われわれは単にプログラムされたことを実行するだけのロボットに過ぎない。だがわれわれは自由意志によって愛し,従うゆえに,また自由意志によって憎み,背きもする。これこそが苦しみの源泉である(22〜23頁)。

という「自由意志」から説明する見解だそうです。
ここで「自由意思」が出てくるところが,アクロバティックで個人的には興味を惹かれたのですが,私が思いつかなかったのは,著者の指摘するとおり,人間の不幸というものは,人間同士の関係だけからもたらされるのではなく,災害や疾病等人間同士の関係とは無関係な事情によってももたらされるのであって,説明としては十分ではないからです(24頁)。
 
自由プロパーの話は,以上で,元々キリスト教信仰など持ち合わせていない私自身にとっては,その主張の理由付けに関して,目新しい点はないのですが,筆者の主張の中で出てくるキリスト教神学者の人たちが本音ベースで聖書をどのように読んでいるのかについての豆知識的なところです。
たとえば,以上のような神義論に対する疑問について,周囲のキリスト者の反応は

彼らの非常に高邁かつ玄妙な見解によれば(略),宗教的信仰はすべてを説明する知的システムではないのである。信仰とは神秘であり,この世の神性を体験することなのであって,一連の問題に対する解を期待してはならない

というものだそうで,キリスト教神学というものが改めて護教的なものに過ぎないということが分かりました。

また,進化論を否定的にとらえるファンダメンタリストが目立つことから,かえって,知らなかった指摘としては

『創世記』から『申命記』【※管理者注・ワードで「しんめいき」と打ち込んだら,一発で変換。今更ながら,キリスト教圏発のソフトだからでしょうか。仏教用語は一発ではあまり出ないのに……。】までの話は基本的に歴史的事実であると考える学者もいれば,はるか後の創作であると考える学者もいる。たぶん大半の学者は,これらの伝承には何らかの歴史的ルーツがあったが,長い年月のうちに口頭伝承として語られまた語り直されていくうちに,すっかり内容が変わってしまっていると考えている(43頁)

というものでした。
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