「勉強部屋」

□自由に関する学習帳
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ベルクソン『時間と自由』を読む・2



 2 力動論と機械論の検討の帰結
 
 ベルクソンは,以上の検討の結果,「自発性の観念の方が惰性の観念よりも,異論の余地なく単純である。」(171頁)という。
 その理由は,「後者(惰性)は,前者(自発性)によってしか理解も定義もされえないのに,前者(自発性)は自己充足的であるからだ。」という(171頁)。
 このような考え方の例証として,「事実,誰もが自分の自由な自発性について,現実であれ錯覚であれ,確かな直観をもつ」とした上で,「その際,この表象のなかに惰性の観念は,理由や目的が何であろうとも入ってこない」とする。

 でも,「自分の自由な自発性についての確かな直観」で正しく自足するのであれば,自由の基礎づけについての論証などは,やはり,いらないということになるのだろうか。

 とりあえず,ベルクソンの言葉を追う。
 
 ベルクソンは,自発性に関する例証を挙げたのに続けて,惰性が自足的ではないことの例証を挙げる。
 
「物質の惰性を定義するためには,それは自分から動くことも止まることもできないとか,あらゆる物体は,何らかの力が介入しない限り,静止ないし運動の状態を保つと言われる。」と物質の惰性の定義を上げた上,この定義が,活動の観念を前提とするという(171頁)。
 
 このように自発性の観念が,惰性の観念よりもより基底的であるということを根拠に自由を根拠づける。
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