「勉強部屋」

□自由に関する学習帳
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ベルクソン『時間と自由』を読む・4



 ベルクソンが,意識の諸状態が相互に絶対的に決定されているという結論が出てこないと言う理路は次のとおりです。
 
 「大脳の物質を構成する各原子の」運動が「あらゆる瞬間において決定されていると仮定しても,私たちの心理生活が」決定されている「という結論は」「出てこない」という(176頁)。
 その理由は,「或る一定の大脳の状態に厳密に決定された一つの心理状態が対応することが証明されなければならないだろうが,その証明はまだなされていないから」という。
 ベルクソンは,この理由に対する仮定的な批判を取り上げる。
 「鼓膜の一定の振動,聴覚神経の一定の振動が一定の音階を生みだすこと」などのように(引用者注・ここは例示と捉えた方が理解しやすいと思う)「多くの場合に,物理的なものと心理的なものという二つの系列のあいだに並行関係がある」,すなわち,物理的なものがある状態にあるとき,心理的なものがある状態になるという必然的(にみえる)関係がある「ことが確認されている」(176頁)から,「或る一定の大脳の状態に厳密に決定された一つの心理状態が対応する」と考えられるのである,と。
 しかし,ベルクソンは,この仮定上の見解は,前記のような対応関係が確認できてしまうために,「誰もその証明が是非とも必要だと思わない」(176頁)だけにすぎず,「いくつかの条件が与えられたなかであっても,自分の好む」音を聞き,色を見る「自由を持っていることをことさら主張しようとは誰も思わなかった」(176頁)にすぎないという。
 物理的なもの(ベルクソン自身は,「生理的なもの」という。)と「心理的なものとの」「厳密と言ってもよいという平行関係が認められる」(176頁〜177頁)場合がある。しかしながら,「このような平行論を二つの系列そのものの全体にまで拡張することは」できない(177頁)。なぜなら,そのような拡張を認めることは,「自由の問題を先験的に(a priori)に裁断してしまうことになる。」(177頁)からである。
 
 「自由の問題を先験的に裁断してしまうこと」も許される。実際に,「多くの偉大な思想家」にもそのような考え方を持った者がいる(177頁)として,ライプニッツ及びスピノザを取り上げた上で,次の秀逸な例を挙げます。
 
「人々は大脳のなかでおこなわれる分子運動を思い浮かべて,こう言う。どうしてなのか分からないが,これらの分子運動からときどき意識が現れて,多分それらの痕跡を燐光のように光らせるのだろう,と。あるいはまた,役者がまったく音の出ない鍵盤に触れている間,舞台裏で演奏している目に見えない演奏者のことを思い浮かべて,こう言う。あたかもメロディーがリズムに合った役者の運動に重なり合うように,意識は未知の領域からやってきて,分子の運動と重なり合うのだろう,と。」(177頁〜178頁)。
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