-蜜-

□月夜の邂逅
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「それでも……村の娘たちが怯えているのにこのまま見過ごすわけにはいきません」
「忘れてるみたいだけど、あんたも娘だよね」

 声の調子を変えた男にさっと警戒を強める。距離を取らなければ——そう思い至った瞬間にはもう彼は目の前に立っていた。

「村長の娘だかなんだか知らないけど、夜更けにひとりでのこのこと吸血鬼の前に現れて、襲ってくれって言ってるようなもんじゃないの」
「それ以上近寄らないで」
「それともそんな危機感すらないほどお花畑の頭なのかな」
「!」

 伸びてきた手をかわし、あげはは後ろ手に持っていた松明(たいまつ)に火を灯した。
 油を含ませた布地が勢いよく燃えあがりバチバチと火の粉を散らす。それを目の前につきだすと男は意表を突かれたのか動きをとめた。

「……やはり炎が苦手なんですね」

 松明をかざす右手はそのままに、男の動きに注意深く目を配る。これで少しは優位に立てるかもしれない——芽生えた期待を裏切るように彼はくつくつと肩を揺らした。

「火に弱いなんて、今でもそんな迷信信じてるんだ」
「え……っ!?」

 男の腕が伸びてきて呆気なく右手を捻りあげられた。
 取り落とした松明が蹴り飛ばされ、夜の湖面に波紋を広げる。

「こんな細い腕で俺に敵うと思った?」

 さして力をこめているふうでもないのに、男が握る右手首はがっちりと締めつけられ振りほどける気がしない。ならば。

「ついでにその懐の短刀ももらっておこうか」

 見透かした表情で次の一手をも封じられ、あげははなすすべなく立ち尽くした。
 恐怖に震えそうになる唇をきゅっと引き結びせめてもと憎き吸血鬼を睨みつける。

「……気丈だね。あんたみたいな子は嫌いじゃない」

 怯えた子ぎつねのように身を竦ませているくせに、その眼光は捕らわれてなお鋭い。この美しい瞳を自分の色に染めることができたらどれだけ気分がいいだろう。
 彼を駆り立てたのは本能的な征服欲か、それともほんの気まぐれか。気づけば腕の力をゆるめてこう持ちかけていた。

「俺と取引しない?」
「取引……?」
「あんたが俺に生き血を提供してくれるなら、もう村の娘は襲わない」

 あげはは目を瞬いた。言葉の意味はもちろん理解できる。けれどそれは。

「私に生贄になれと言うんですか」
「無理強いはしないよ、あくまで取引だしね。今夜は血に飢えてるわけじゃないし、あんたが二度と俺に関わらないっていうならこのまま解放してやってもいい」

 腕を離して間延びした口調で話す男の表情は相変わらず読めない。
 月光を浴びた双眸が妖しく揺らめいて、眉目秀麗な顔立ちはこの世のものとは思えないほど美しく、そして恐ろしかった。気をゆるめたら最後、心ごと取りこまれてしまいそうで。

「……今後一切村の女性を襲わないと約束できますか」
「あんたが俺の餌になり続ける限りはね」

 取引に応じたところでこの吸血鬼が約束を守る保証などどこにもない。けれど今はそれにすがるしかないのだ。
 村を守るために。村長の娘として私にできることは、この身を捧げることだけ。

「……わかりました。取引に乗ります」

 覚悟を固めた瞳に浮かぶのは穢れなき信念。その美しさに悦びを覚えた男の唇は静かに弧を描いた。

「自分を犠牲にして他人を守ろうなんて、我欲にまみれた人間らしくないな。気に入ったよ。名前はなんだっけ?」
「……あげはです」
「それじゃああげは。あんたを俺の城に招待する」

 小さく震える頬を彼の手がなでていく。その手はひやりと冷たくてやはり人間ではないのだと思い知る。

「ああ、その前に。少しだけ味見させてもらうよ? たまーに受けつけない味の血の女もいるから」

 肩にかかった髪をすくいあげると、顕わになった白い首筋に吸血鬼は嬉しそうに喉仏を上下させた。
 吸われる。恐怖にこわばる体は微動だにせず、迫りくる牙を受けいれた。

「あ……っ!」

 途端に襲いかかる、肉を引き裂かれる痛み。けれどそれに顔をしかめたのは一瞬だった。
 痛みが熱に変わり、熱は痺れをともなってたちまち全身を駆け巡る。視界はストロボのようにちかちかと明滅し、思考は寸断されたのかまともに働かなかった。

「……いいね。たまらなく甘い」

 欲情を滲ませる声がすぐ耳元で響く。何度も耳の中で反響する声に意識まで溶かされそうになる。

「おっと。少し吸いすぎたかな」

 平衡感覚を失った体が力強い腕に支えられたのを最後に、あげはは意識を手放した。
 水面に映るふたつの影が陽炎のように揺らめき、消えた。






≫2. 名前を呼んで


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