-蜜-
□名前を呼んで
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それからの数日は、拍子抜けするほど平穏な日々が続いた。
これだけの規模の城なのだからてっきり召使いでもいるのかと思いきや、ここで生活しているのは彼ひとりのようだ。つまりは食事の用意も後片付けも彼自身がしていたと。
それを知ってからはあげはも率先して食事の準備を手伝うようになった。
「別にいいのに」
「いえ、やらせてください。これじゃただの穀潰しですから」
「あんたひとり増えたくらいでそう変わらないよ」
「でも、そもそもあなたには血液以外の食事は必要ないんじゃないですか?」
自分がいなければ食事の用意をする必要さえなかったのではないかと。焼きあがった豚肉のソテーを皿に盛りつけながら、キッチン横のカウンターに肘をついている彼に問いかける。
「まあ娯楽のひとつだよ。栄養にはならないけど人間の食べ物だって普通に美味いと思うし」
フライパンに残った肉汁に調味料を加えてソースを作り始めると彼は興味深そうに覗きこんでいた。確かに人間の生き血しか欲しないというわけではないようだ。
「意外と雑食なんですね」
「人間にだけは言われたくない」
「私たちは生き血をすすったりはしません」
「そうしないと生きられないんだから仕方ないでしょ。俺に言わせれば人間のほうがよっぽど強欲だよ」
ソースをかきまぜる手をとめて見上げれば彼は冷めた目でこちらを見据えていた。
「だってそうでしょ。人間なんて雑食なんだから別に肉を食わなくたって死にやしないのに、ひとたび肉の味を覚えたら目の色変えて飛びついて。豚も牛も家畜として飼いならして、ただ自分たちの食用とするためだけに繁殖させている。そのくせ自分たちが狙われる立場になったら、急にすくみあがってこっちを化け物扱いだ。欲深い生き物だと思わない?」
「……それは」
「前にも言ったけど、俺は血をもらうことはあっても命まで奪うことはしない。人間から命を分け与えてもらってると思ってるし。けど人間は肉を食べるときにそんなこと考えもしないでしょ? 自分たちは食物連鎖の頂点に立つ存在だと当たり前のように思ってる」
「……」
「ま、いつの時代も弱者は強者に淘汰される定めだ。自然の摂理を考えれば致し方のないことだけどね」
諦観まじりにぼやく彼に返す言葉もなく立ちすくんでいると、それに気づいたのか声の調子を変えて表情をゆるめた。
「ああ、別に責めてるわけじゃないから。あんたは人間にしては珍しく懐の深い子だと思うよ。他人のために自分を差しだすなんてそうそうできることじゃない」
これはフォローしてくれている、のだろうか。だからといってお礼を言うのも違う気がして、迷ったものの結局無言のままフライパンを火からおろした。
「ん、いい匂い。完成?」
「はい。お口に合うかわかりませんけど」
煮詰めたソースをソテーにかけて、ふたり分の皿を食卓に並べる。バターパンを詰めたカゴを中央に置いて、スープをよそって紅茶を淹れれば今夜の食事は完成。
手を合わせて「いただきます」と目を伏せると、向かいに座る彼も同じように合わせていた。最初はそんなこと気にもとめていなかったのに、いつの間に自分を真似るようになったのだろう。
「うん、美味い!」
「よかったです」
「へえ、ソースをかけるだけでこんなに風味が変わるんだ」
ソテー肉をしげしげと眺め、咀嚼して味わう姿は人間となんら変わりはない。もちろん人間離れした端正な容姿ではあるけれど、それだけだ。
安穏と過ぎていく時間は彼が吸血鬼であるという認識さえ薄れさせていくようだった。
……事実はなにひとつ変わっていないというのに。
そんなゆるんだ心の綻びに杭を打ちつけるように、そのときは訪れた。
食事を終え、紅茶を飲み干した彼が優美に微笑み、告げる。
「明日で一週間経つね。そろそろいい?」
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