□落椿
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妻は、死ぬという。
わたしよりもはるかに若く、美しいというのに。





陳麗の寝顔はやすらかだ。
後ろから聞こえてくる、微かだが確かな寝息が、わたしを心底安堵させる。
店に出ていない時は、妻が寝ているすぐそばで仕事をしている。
以前は店のことなど気にもとめず、朝も夜もなくそばから離れなかったものだが、最近では妻が気を使わないように、店は普段通り開けることにしていた。
涼しい風が、梁山湖からふいてくる。開けた窓から望める、美しい湖。
筆を置き、そろりと立ち上がる。まもなく、阮小七が魚を売りに来ることになっているのだ。



階段を下りようとしたところで、あなた、と呼び止められた。あなた、と。愛しい声。あと私は、この声を何度聞けるのだろう。
陳麗が目を開けていた。顔は、心なしか青白い。安道全先生と薛永先生が来てくれる前は、この白い肌が高熱で痛々しいほど赤くなっていたものだった。今は、そんなこともない。それだけでも、ずいぶんと気休めになっている。
「眠っていました」
少し微笑んで、陳麗は言う。声が掠れている。
「無理はするな。おとなしく寝ておれ」
しっとりと、汗にぬれた額にふれる。あたたかい。妻は死ぬという。この若さで。こんなにも美しいまま。
「白湯を、とっていただけますか?」
「ああ。――空だな。待っておれ、今新しい白湯を入れてくる」
常に起きたら白湯を飲むため、普段から枕元に置いておいた急須は空になっていた。すぐに一階の調理場へ行って、白湯を注ぎ足す。ついでに、魚と野菜の煮汁を温めなおした。





2階に上がってくると、陳麗が起き上がっていた。窓辺にゆったりと座り、外を見ている。
「おい」
「寝ていてばかりでは、気も滅入ってしまうのです」
口をすっぱく、寝ていろ動くなと言うわたしに、陳麗は苦笑する。
本当は、外に出たいのだろう。庭くらい、自由に歩き回らせてやりたい。だが、もうそうするだけの体力も、陳麗の体には残っていない。
窓からは、街道、そして梁山湖の変わらぬ姿が見える。
陽の光を反射し、輝く美しい水面。
白湯をさしだすと、陳麗はすぐに口をつける。しかし、碗に注いだ量の半分も呑んでいなかった。
「これは、身のついた魚と野菜をいっしょに煮たものだ。魚の身も、野菜も、そのまま飲み込めるほどやわらかい。少しでもいいから、食べてみてくれ」
「よい匂いです」
陳麗は、煮汁の入った碗を両手で受け取る。
湯気とともに、しばらく匂いを楽しむと、ようやく口をつけた。少しずつ、本当に少しずつ、のどを通っていく。



「志とは、よいものですか?」
いっしょに窓の外を見ていたわたしに、陳麗はたおやかに笑んで聞いた。
「あなたは、最近変わりました。・・・いえ、私が病に伏せる前のあなたに、もどったと言うべきかもしれません」
血の病だと、安道全先生が言っていた。治らぬと。しかし、熱を下げ、苦しみを和らげることはできるとも。誰かに、泣けてくるほどの感謝を感じたのは、はじめてかもしれない。
うつむき、膝の上で固くにぎったこぶしの上に、陳麗はやさしく細い手を重ねた。
「つらいですか?」
「いや、今はとても穏やかだ。不思議だな。お前の病が、治ったわけではないというのに」
「それは、わたしの病を受け入れてくれたからだと思います」
「お前の病を?」
「はい。今のあなたは、病ごと、わたしを見てくれています。以前のあなたは、わたしの健康ばかり追いもとめていました。こちらが見ていて、苦しくなるほどに」



最後の時を、こうして穏やかに過ごせる。それは、おそらく喜びなのだ。
妻が熱で苦しむことも、そんな妻を見てわたしの気がおかしくなりそうになることもない。ただ、おだやかで静かな最期。
「陳麗」
そう、最期なのだ。
わたしは、病の床にある妻にまで、いろいろと心配をさせてしまっていた。不出来な夫であっただろう。
それでも、最期にひと言。
「死ぬな。とは、もう言わぬ。――また、会おう」
陳麗は、しばしわたしの顔をみつめ、それからゆっくりと手をのばしてきた。やせ細った手首さえ、今は愛しい。
白い指先が、わたしの目じりからなにかを掬う。涙だった。わたしは泣いている。気づかなかった。
陳麗は、ゆっくりと、笑った。満ち足りたような笑みだった。わたしが愛した笑顔。
わたしも、笑みを返す。
妻の長い睫毛の下から、涙が一筋滑り落ちた。




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